日本百名城 鳥取城跡
梨楽庵

復元された擬宝珠(ぎぼし)橋と中ノ御門表門

鳥取城跡は桜の名所

桜の雲海を眺めることができます。

天球丸の巻き石垣

見事な天球丸

鳥取城絵図

初代藩主 池田光仲(みつなか)

国指定史跡、鳥取城跡は鳥取市のシンボル久松山(きゅうしょうざん)の山麓にあり、戦国時代の山城(やまじろ)が起源の城跡です。防御に優れ、山頂からの眺望の素晴らしさから、「日本(ひのもと)にかくれなき名山」と言われ、織田信長も「堅固な名城」と讃えています。
戦国時代に鳥取城は羽柴(後の豊臣)秀吉の有名な兵糧攻めの舞台となり、江戸時代には鳥取藩主池田氏32万石の居城となりました。鳥取城跡とその周辺には、多様な城の姿が残されていて、「城郭の博物館」と呼ばれています。
〈 戦国時代の鳥取城 〉
鳥取城は、16世紀の中頃、守護大名山名一族の争いの中で誕生しました。はじめは因幡国山名氏の守護所の「出城」でしたが、1573年(天正元年)山名豊国(やまなとよくに)は本拠地を湖山池東岸の天神山城(てんじんやまじろ)から久松山麓へ移し、これ以降、鳥取城は因幡国(鳥取県の東側半分)の拠点となったのです。その後、山名氏は中国地方の大大名、毛利氏の家臣となり、天下統一をめざしていた織田信長の家臣、羽柴秀吉軍との間で壮絶な戦いが繰り広げられたのです。
〈 鳥取城の兵糧攻め 〉
天下統一をめざす織田信長は、1580年(天正8年)と1581年(天正9年)の2度にわたり、羽柴秀吉を総大将として大軍を派遣し、毛利方についた鳥取城を攻撃したのです。2度目の城攻めのとき、秀吉は圧倒的な兵力で鳥取城を包囲し、一切の補給路を断つ作戦、いわゆる「兵糧攻め」を行ったのです。
毛利方の援軍からの兵糧も断たれ、城内の兵糧も底をつき、城内は悲惨な状況だったと伝えられています。追い詰められた城主、吉川経家は、ついに決断します。城内に残された家臣や城に避難していた民衆の命と引き換えに自らは切腹することを秀吉に申し出たのです。その結果、鳥取城は秀吉軍に明け渡されたのでした。
〈 安土桃山時代の鳥取城 〉
兵糧攻めの後、鳥取城主となったのは、秀吉の家臣、宮部継潤(みやべけいじゅん)でした。宮部は石垣や天守を築き、城の姿を一新したと言われています。しかし、1600年(慶長5年)に起きた「関ヶ原の戦い」で、息子の宮部長房(みやべながふさ)は石田三成の西軍側につき、東軍側の鹿野城主、亀井茲矩(かめいこれのり)らの激しい攻撃を受け、城を明け渡すこととなりました。
〈 江戸時代初期の鳥取城 〉
関ヶ原の戦いの後には、姫路城を築いた池田輝政(てるまさ)の弟、池田長吉(ながよし)が鳥取城主になります。つまり、鳥取城と姫路城は池田氏の兄弟が大名となり、西国の豊臣家と関係のある大名の監視役となったのです。
1615年(元和元年)、「大阪夏の陣」で豊臣家が滅ぶと、池田家は転機を迎えます。1616年(元和2年)、姫路城主の池田利隆(としたか)が亡くなり、息子の光政(みつまさ)が数え年8歳で家督を継ぐことになったのです。
しかし、翌年1617年(元和3年)、「播磨国は中国地方の重要な場所であり、幼い領主では治められない」という理由で、幕府よって、姫路城主の池田光政(みつまさ)は、因幡国と伯耆国2ヶ国、32万石の領主として、鳥取へ配置換えとなったのです。このときから、現在の鳥取県の県域とほぼ同じ領域の「鳥取藩」が誕生したのです。
池田光政が入城するまでの鳥取城は、6万石規模の大名の居城でした。そのために、光政は、久松山山麓を32万石の城下に相応しい場所にするために大規模な改修工事を行ったのです。その結果、現在の鳥取市街地の原型がこのとき形づくられたのです。
ところが、1632年(寛永9年)、岡山城主の池田忠雄(ただお)が亡くなり、わずか3歳の光仲(みつなか)が家督を継ぐことになると、幕府は「幼少では政務は困難」との判断を下し、いとこ関係にある光仲と、21歳年上の光政の国替えを命じたのです。その結果、鳥取城は池田光仲を初代藩主とし、江戸時代の終わりまでの間、「鳥取池田家12代」の居城となったのです。
〈 明治以降の鳥取城 〉
明治維新の後、1873年(明治6年)に「廃城令」(はいじょうれい)が出され全国の多くの城が取り壊されましたが、鳥取城は軍事的な必要性が認められ、建物の多くは陸軍の施設として再利用されることになりました。しかし、1877年(明治10年)に起きた西南戦争が終わり国内の治安が安定すると、1879年(明治12年)建物のほぼすべてが撤去されたのです。
その後、城跡は三の丸や籾蔵(もみぐら)跡が学校用地として転用され、扇御殿(おうぎごてん)跡には「仁風閣」(令和5年12月28日付ブログ参照)が建設されました。大正時代になると、市民の要望を受けて、旧藩主の鳥取池田家によって久松公園(きゅうしょうこうえん)が整備され、鳥取市民の憩いの場となりました。
〈 昭和以降の鳥取城 〉
1943年(昭和18年)に発生した震度6の鳥取大地震によって、城跡も大きな被害を受けました。翌年、旧鳥取藩主池田家は、震災の復興に立ち向かう市民を勇気づけるために、鳥取城跡を鳥取市に寄贈しました。城跡の保存の意志を受け継いだ鳥取市は、1957年(昭和32年)に鳥取城跡が「国指定史跡」に認定されたことを契機に、石垣の修理を中心に城跡の保存と活用に取り組んでいます。
2006年(平成18年)には、建物の復元を含めた長期的な整備計画を策定しました。現在は、城の正面玄関にあたる「大手登城路」の復元整備に取り組んでいます。
*天球丸の巻石垣(復元)…亀の甲羅状の石垣は、設置された個所の石垣が文化4年(1807年)頃に崩れそうになり、それを防ぐ目的で築かれました。角(かど)を持たない形から、巻石垣(まきいしがき)とも言われ、川の護岸や港の突堤に関わりのある職人が築いたとされます。こうした石垣が城に用いられる事例は鳥取城以外に無く、貴重であることから絵図などをもとに復元しました。(平成24年4月鳥取市教育委員会)
*参考資料…『特別展 鳥取藩32万石』(鳥取県立博物館)『県史31 鳥取県の歴史』(山川出版社)『国指定史跡 日本百名城 鳥取城跡』(鳥取市教育委員会事務局文化財課)『鳥取県謎解き散歩』(新人物文庫)
