農家民宿 梨楽庵ブログ

湯梨浜町は古代の楽園だった?

梨楽庵

東郷湖東側丘陵部の出雲山からの眺望です。左手の高い建物が「はわい温泉」付近、中央部の横長の山が「大平山」、その後ろに見えるのが「大山(だいせん)」と「蒜山(ひるぜん)」の山々です

視線を右手に移すと、湖の中央に橋津川が見えます。日本海までおよそ2㎞です

縄文時代前期、今から約6000年前は、馬ノ山と大平山との間が大きな湾になっていました

海水面が低下し陸地が広がると、風や波によって海岸部に砂が堆積し、北条砂丘が西から東へと発達し、内海の東郷湖が形作られていきました

東郷湖周辺の遺跡分布の様子です。①長瀬高浜遺跡 ③馬ノ山古墳群 ⑤南谷大山遺跡 ⑦宮内狐塚古墳 ㉑北山古墳 ㉘大平山古墳群

図中⑤の南谷大谷遺跡で出土した「しじみの貝殻」です

中央部に見えるのが「馬ノ山4号墳」です。古墳が築造された当時は、もっと見晴らしがよかったはずです

 馬ノ山4号墳は山陰地方最大級の前方後円墳です

馬ノ山4号墳の「後円墳」の上からの眺望です。伯耆富士「大山(だいせん)」が目の前に現れてきました

図中㉑の山陰地方最大級の前方後円墳「北山古墳」の後円墳の上からの眺望です。後円墳は盗掘により破壊されています。方墳部分は森林によって見えにくい状況でした。写真は東郷温泉方面の眺めです。右手に中国庭園「燕趙園」が見えます

 北山古墳から眺めた東郷湖中央付近の眺めです

視線を左手に移すと、はわい温泉が見えます。左奥に見える山陰自動車道の左奥に「馬ノ山4号墳」があります。巨大な二つの古墳に埋葬された王たちは、ライバル関係にあったのかもしれませんね

 10月10日に湯梨浜町で開催された長瀬高浜遺跡50周年記念講演の拝聴がきっかけとなり、郷土の歴史に対する興味関心が沸々と湧き上がってきました。湯梨浜町役場本庁舎のすぐ隣には湯梨浜町羽合歴史民俗資料館があるにも関わらず、これまでに数回程度訪れただけでした。

 何十年ぶりに訪れた資料館は宝の山でした。長瀬高浜遺跡で出土した当時のままの埴輪だけでなく、土器や鉄器や祭祀用具など、多くの遺物が整然と展示されていました。見学するにつれて、長い間資料館を素通りしてきた自分がとても恥ずかしくなりました。

 許可を得て展示品を撮影し、解説ビデオを視聴し、『重要文化財 長瀬高浜のはにわ』とガイドブック『砂とうみの物語』を購入し、『新・長瀬高浜遺跡だより』を持ち帰り、自宅学習に励みました。誰からも強制されない学びは、これ以上にない楽しい時間であることを改めて実感しました。

 今から約6000年前の縄文時代前期には、東郷湖周辺の海水面は今よりも5m~6mも高く、現在は平野となっている低地には海水が深く侵入していました。海が陸に向かって進んで行くので、この現象を「海進」と言い、特に縄文時代の海進は「縄文海進」(注1)と呼ばれています。この縄文海進によってできた浅い海は、魚貝類の絶好のすみかとなり、縄文人にとっては漁や狩りをするには最適の環境だったのです。

 縄文海進が終わると、海水面は低くなり、陸地が広がりました。沿岸部には風や波によって砂の堆積が多くなり、東郷湖をふさぐように西から東へと北条砂丘が発達していきました。砂丘にふさがれた東郷湖は波の穏やかな内海となり、周辺には低湿地が広がりました。低湿地では初期の稲作が始まり、多くの人々が定住するようになったのです。

 北条砂丘の砂の層は、火山灰層で上下に分かれています。火山灰層より下を「古砂丘」、上を「新砂丘」と呼んでいます。人々が定住し始めた弥生時代から奈良時代にかけて、「新砂丘」の発達は止まり植物が生い茂っていました。この植物が分解しできた黒っぽい砂の層を「クロスナ層」と呼んでいます。

 クロスナ層ができた時代は、長期にわたり「飛砂」の影響が少なく、砂丘地では人々が生活していました。現在の天神川の東岸で発見された「長瀬高浜遺跡」では、多くの遺物や遺構はクロスナ層の中から出土しています。

 弥生時代になると天神川やその支流などの河川が運ぶ土砂の堆積が続き、天神川の左岸には北条平野が、右岸には羽合平野が広がりました。そして、内海となった東郷湖の周辺には多くの人々が定住し、集落を築くようになったのです。「東郷湖周辺の遺跡分布図」をご覧ください。

 図中⑤は「南谷大山遺跡」です。丘陵上にあり、ここは100棟以上の竪穴及び掘立て柱建物跡が出土した大規模な集落遺跡です。弥生時代の終わりごろから古墳時代の終わりにかけて人々が生活の場としていたのです。この遺跡からは「しじみの貝殻」が出土しています。今現在、東郷湖から採れる大粒のしじみは、「黒いダイヤ」と呼ばれ、湯梨浜町のブランド商品となっています。当時の人たちにとっても貴重な食糧だったのです。

 東郷湖周辺の遺跡分布図をみると、東郷湖の周囲からは多くの古墳が発掘されています。驚くことに、大小合わせて900基以上もあるのです。図中③の「馬ノ山古墳群」には28基の古墳が点在していて、中でも馬ノ山4号墳は全長100m程度と推定され、山陰地方最大級の前方後円墳です。図中㉑は「北山古墳」です。全長110mと推定され、馬ノ山4号墳と同規模の前方後円墳です。図中⑦は「宮内狐塚(みやうちきつねづか)古墳」です。これも全長95mと推定される大規模な前方後円墳です。

 このように、東郷湖周辺では、古墳時代前期(4世紀)から古墳時代後期(6世紀)の約300年間にわたり古墳が造られ続けています。このことから、東郷湖周辺一帯を支配した有力者一族が連綿と権力を受け継いでいたと推測されるのです。

 では、有力者一族はどこに住んでいたのでしょうか。標高約100mの馬ノ山の丘陵から見下ろすことのできる対岸には、大規模集落の長瀬高浜遺跡があります。そのことから、馬ノ山にある大規模な前方後円墳は、長瀬高浜遺跡の集落に居住し、東郷湖周辺一帯を支配した有力首長の王墓ではないかと推測されています。

 東郷湖周辺で大規模な前方後円墳をはじめ、円墳や方墳など多くの古墳が造られていたということは、古墳を造ることができる高度な技術者たちが住んでいたからです。同時に、古墳を飾る埴輪を大量に作ることのできる職人たちも住んでいたのです。

 前回のブログで紹介しましたが、長瀬高浜遺跡で発見された埴輪群は、北山古墳の次に造られる予定だった前方後円墳のために製造されたにも関わらず、何らかの理由で古墳の築造が中止となり、保管場所にそのまま残され、長い年月の間に砂に埋もれてしまったのではないかという説こそ一番説得力があるように感じられます。

 馬ノ山4号墳の後円墳上に登ると、前方に伯耆富士「大山」や中国山地の山々を見渡すことができます。右手に目をやれば、日本海の大海原を見渡すことができます。東郷湖南岸の丘陵部にある北山古墳の後円墳上からは、東郷湖を一望することができます。いずれも見事な絶景です。墳丘上に来てみると、有力首長がこの地に古墳を造らせた意図がわかるような気がしました。

 長瀬高浜遺跡からは、鉄器も多く出土しています。鉄を加工した鍛冶(かじ)跡も発見されています。鉄を加工するには高度な技術が必要なので、鍛冶の技術は朝鮮半島や北九州から伝来されたと考えられています。波穏やかな内海があり、日本海に面していて大陸との交流も可能だった東郷湖周辺は、古代人にとっては楽園の地だったのかもしれません。

(注1)縄文海進…湯梨浜町の橋津海岸山麓には、波によって削られた海食洞や海食崖の痕跡が見られます。