農家民宿 梨楽庵ブログ

日本一だった倉吉の千歯扱き②

梨楽庵

日本一の生産量を誇った倉吉の千歯扱き(倉吉博物館所蔵)

白色のモダンな建物が印象的です。左側が「倉吉歴史民俗資料館」右側が「倉吉博物館」です

 倉吉における千刃の製造と販売の最盛期は明治から大正時代初期でした。明治7年(1874年)の「府県物産表」によると、隠岐を含めた鳥取県の千刃生産額は60,250挺でした。

 この生産額は、当時の「竹千歯」を含めた国内生産額の約47%を占めて全国首位であり、二位が大阪の約15,000挺、三位が神奈川の13,000挺でした。大正2年(1913年)の生産高は94,568挺で、大正7,8年頃には朝鮮半島へも輸出されていたそうです。この時期、倉吉は全国一の千歯の生産地だったのです。

 それではなぜ倉吉で千歯生産がさかんになったのでしょうか。その理由は大きく3つあります。まず第一は、倉吉のある伯耆国では天神川上流部で鉄穴流しによる砂鉄の採掘がさかんに行われ、古くからたたら製鉄が行われていたからです。

 特に、たたら製鉄が最も盛んだった日野郡からも鋼や包丁鉄を入手することができ、倉吉市内の「鍛冶町」を中心に鍛冶屋を営む人が多かったからです。地金の包丁鉄をもとに、生活用具や農機具等に加工する鍛冶技術があったからこそ、千歯製造に生かすことができたのです。

 第二の理由は、倉吉の千歯が優れた製品で、しかも安価だったからです。前回のブログで千歯扱きの詳細な研究に取り組まれた朝倉康二氏の論説を紹介しましたが、彼は今から44年前に、91歳だった鍛冶職人の角原豊政翁から千歯鍛冶の当時の様子について聞き取り調査を行っています。

 その聞き取りによると、倉吉の千歯扱きの鉄製の穂(刃)に使われたのは「伽羅鋼(きゃらはがね)」と呼ばれていました。伽羅鋼は玉鋼より安価な包丁鉄を材料に作られます。

 伽羅鋼は、まず、青酸カリ、小鴨川や天神川で採れる鮎のウルカ(内臓)、白色硝石、さらに塩を混ぜて鍋で煮て薬をつくります。

 次に、これを炭火であぶった穂の地金に塗り、焼き入れをして作る独自の技法です。この技術があったからこそ、良質で安価な倉吉千歯が広く普及したのです。

 日野の印賀鋼などの玉鋼を材料に作るやり方は「正鋼(しょうはがね)作り」と呼んでいたそうです。しかし、正鋼(しょうはがね)は玉鋼を打ち鍛えて成型するため高度な技術が必要です。

 性能は優れていたかもしれませんがかなり高価になったようです。角原翁は、正鋼製の千歯扱きは、特別な注文があったときだけに作ったと語っています。

 倉吉の鍛冶職人たちの創意工夫によって、強度と弾力性を持ち、すり減りにくい性質の伽羅鋼が開発されたのです。開発された時期は明確ではありませんが、天保9年(1838年)頃ではないかと推測されます。伽羅鋼の穂を使用した千歯扱きは、「全国無比の良品」として大評判となったのです。

 千歯扱きをつくる作業工程の中で最も重要なことは、千歯扱きの「目」をつくる作業だと角原翁は証言しています。目とは、穂と穂の間のすき間のことです。穂を台木に取りつけるとき、穂と穂の間隔の取り方と、台木への取りつけ方によって性能が決定したのです。

 技術力の高い職人が取りつけた千歯扱きだと、「穂と穂の間に上から一銭銅貨を落とすと、穂先では少し引っ掛かり気味に落ちて行き、元に近づくとすうっとぬける。これが理想で、こうした作りになっていると、稲はサッサッと軽い音で小気味よく扱ける」と角原翁は語っていました。

千歯扱きの穂(刃)には高度な職人技が詰まっているのです(倉吉博物館所蔵)

 第三の理由は、倉吉独自の販売方法があったからだと言われています。倉吉の千歯扱きは、他の農具と同じように、天下の台所と呼ばれた大阪を中心として、全国各地の問屋を経由する「店売り」がありました。

 しかし、独自の販売方法として「行商」が行われていました。行商は旅商いとも言われ、交通機関が未発達で、消費者の身近な所に店がなかった当時においては効果的な販売方法だったのです。

 千歯扱きは耐久期間が短く、3年~5年に一度は修理が必要でした。稲を扱くときに穂(刃)に力が加わり、穂と穂の間が広がったり、穂がぐらついたりしたからです。釘を締め直し、場合によっては台木を取り換えることが必要でした。

 修理ができないときは農家の人たちは新品を購入しなければなりませんでした。倉吉の行商人は、古い千歯扱きの修理と新品の販売をセットにした当時としては画期的な販売方法を行っていたのです。

 倉吉博物館には「古金屋」の屋号で千歯扱きを製造していた「赤島」という鍛冶屋の「稲扱千刃行商記録」が所蔵されていて、明治3年(1870年)に静岡県の中西部地区に行商に回ったときの様子を知ることができます。

 赤島が残した「諸書控」という記録には、明治13年~15年にかけての行商の様子が書き残されています。明治13年(1880年)の行商先は、長崎県の五島列島で、約半年に及んでいます。

 翌年は、青森県を回り、半年余りの日程でした。明治15年(1882年)の行商も半年余りの日程で、岩手県内を中心に回り、4名で出かけたことが確認されています。

 長期の行商の場合は、出先に千歯扱きや修理用の部品を保管している拠点を設けていたようです。千歯扱きの修理には鍛冶の技術が必要なので修理道具を持ち運ばなければなりません。

 商品の千歯扱きは重くかさばるので、大量に持ち歩くことは困難です。そのために、拠点を設けて、そこで修理をしたり、農家を回って直しや販売を行っていたのです。

『東日本の千刃扱きーその産地と伝播ー』朝岡康二氏より

 交通機関が未発達な時代に九州や東北地方にも行商に出かけていたのです。倉吉の先人たちの凄まじい商魂はお見事です

 倉吉博物館の展示品の中に、驚き感心した展示品がありました。何と、千歯扱きの雛型があったのです。雛型は台木の幅は20㎝ほどですが、サイズ以外は本物と同じ製造方法で作られています。

 行商先へ千歯扱きをたくさん持ち歩くのは大変ですが、実物同様の雛型があれば売り込むには説得力があります。主任学芸員の関本明子さんのお話によると、この雛型は全国で唯一残された大変貴重なものだそうです。

千歯扱きの雛型です。台木には屋号の後に「無類飛切特別製伽羅鋼請合」と倉吉独特の飾り文字が書かれています(倉吉博物館所蔵)

 穂が弧を描くように取り付けられた「湾曲千歯」です。「扱く稲を千歯扱きに当てたとき、稲を握った手元と穂との間が等間隔になり、稲を引く力が均等にかかるようになっています。倉吉の特許製品といわれています」(倉吉博物館主任学芸員の関本明子さんの論文より引用)明治の半ば以降、千歯扱きの改良が進められました。「雛型」も湾曲千歯になっています(倉吉博物館所蔵)

 倉吉の行商では、「掛け売り」が行われていました。稲刈り前には千歯扱きの修理と販売を行って手付金をもらい、稲刈りが終わってから残金を支払ってもらうやり方です。農家にとっても行商人にとっても有効な販売方法だったのです。

 全国に名を知られ隆盛を極めた倉吉の千歯扱きでしたが、大正10年(1921年)頃を境に、鍛冶屋の多くが廃業に追い込まれました。それは「足踏み脱穀機」が開発されたからです。

 足踏み脱穀機は、円筒型の扱き胴に逆V字型の針金をつけ、踏み板を踏むと回転する仕組みです。稲束を一把(いちわ)持ち、回転している扱き胴に当てて脱穀します。脱穀の効率が非常に良く、改良が重ねられ、大正時代の後半に全国に急速に普及したのです。

足踏み脱穀機の登場が千歯扱きの衰退を招きました(倉吉博物館所蔵)

 倉吉の鍛冶町には、最盛期には関係者が500人ほどいて、そのうち200人を超える職人が働いていたと言われています。廃業後は千歯扱き以外の農機具製造を続ける店もありましたが、呉服屋などの異業種に転業した店も多かったようです。

 倉吉の千歯扱きは、今は倉吉博物館の展示室に物静かに佇んでいます。千歯扱きを見つめていると、千歯扱きに関わった多くの人たちの語り声が聞こえてくるように感じられます。

*文中、冒頭の2行目の「隠岐」について…明治4年(1871年)12月27日~明治9年(1876年)8月31日まで隠岐国は鳥取県が管轄していました。

*伽羅とは…極上の意味 伽羅色…濃い茶色のこと