農家民宿 梨楽庵ブログ

砂に埋もれた巨大遺跡

梨楽庵

  「火山の大噴火によって地中に埋もれてしまった古代ローマ時代の都市はどこですか」と問えば、即座に「ポンペイ!」と答えが返ってくることでしょう。その通りです。ポンペイは、古代のローマ帝国の地方都市で、イタリアのナポリ湾岸にあり、背後にはヴェスヴィオ火山がありました。

 紀元79年、ヴェスヴィオ火山が大噴火を起こし、大量の火山礫や火山灰が降り注ぎ、その後発生した火砕流によって、一昼夜にして溶岩と火山灰の下に埋もれてしまったのです。(注1)

 ポンペイが発掘されたのは、18世紀の中頃で、約1700年間も眠り続けていたのです。その後、今日に至るまで発掘調査は続けられ、奇跡的にも、ほぼ当時のままの都市の姿が次々と明らかになったのです。現在は、ポンペイ遺跡として世界遺産に指定されています。

 今から18年前、イタリア旅行に出かけた時、私もポンペイ遺跡を訪れました。見学しながら、ローマ時代の中核都市が一瞬にして地中に埋もれてしまったこと、そして、その遺跡の上を、今、自分が歩いていることが信じられない心境でした。

   ヴェスヴィオ火山とポンペイ遺跡

   イタリア旅行の思い出の写真です

  石畳の道も当時のままでした。信じられません

 発掘調査に携わった人たちは、ワクワクドキドキの毎日だったことでしょう。だって、掘れば掘るほど、新発見!目の前に古代ローマの都市が出現するのですから。

 それでは、次の問いに答えてみてください。「今から約1700年前、湯梨浜町の東郷池の近くにあった巨大集落で、その後、砂に埋もれてしまった集落遺跡の名前を知っていますか」……。

 鳥取県外の方にとっては難しい質問だったかもしれません。実は、ポンペイ遺跡が火山灰に埋もれてしまったころ、日本の、鳥取県の、湯梨浜町では、東郷池と日本海に挟まれた砂丘地で人々の生活が営まれていたのです。その遺跡は、“長瀬高浜遺跡(ながせたかはまいせき)”と呼ばれています。

   長瀬高浜遺跡の発掘当時の様子です

 長瀬高浜遺跡が発見されたのは、昭和49年(1974年)、今から51年前のことでした。鳥取県の日本海に面して東西に国道九号線が走っています。この国道9号線の交通事情をよりよくするために新規バイパス道路が建設されることになりました。そのために、事前の遺跡分布調査を行った結果、10m以上もの白砂の下にある、厚さ1m~2mの黒砂層の中から膨大な量の遺構や遺物が発見されたのです。

  国道9号線のすぐ隣が令和の発掘現場です

   発掘調査は急ピッチで進められました

 左側が天神川、北側が日本海、右側が東郷池です。長瀬高浜遺跡は天神川河口付近の白枠で囲った部分です

  航空写真と見比べて遺跡の場所を確認してください

 これまでに発掘調査は3回実施されています。「昭和の発掘調査」が昭和52年(1977年)から6年間、「平成の発掘調査」が平成7年(1995年)から4年間、そして、「令和の発掘調査」が令和4年(2022年)から3年計画で実施されました。

 昭和の発掘調査では、約200棟もの竪穴建物跡や膨大な量の土器が発見されています。41基の古墳や24基の木棺墓などの埋葬施設や古墳時代の生活用具、鉄製の農工具や祭祀用具なども数多く出土しています。

  いろいろな形の土器も大量に出土しています

 遺跡内で最も大きな円墳の「長瀬高浜1号墳」からは、女性の人骨や鉄刀などが発見されています。発掘調査が進むにつれて、長瀬高浜遺跡は鳥取県内だけではなく、全国的にも有数の遺跡であることが明らかになったのです。

 写真は移転復元された長瀬高浜遺跡1号墳です。中央部の箱式石棺からは、成人女性のほぼ全身の人骨が発見されました。石棺は板状安山岩で組み合わされ、すき間は粘土で厳重に密封されていたため、石棺内に砂が入り込まなかったので人骨がほぼ完全な状態で残されました

 中でも特筆すべきは、昭和55年(1980年)12月、大雪の中での発掘作業中に大量の埴輪が出土したことです。確認できた埴輪の総数は、145体にもなります。      

    保存状態の良い埴輪が大量に出土しました

 一般に、これまでの通説では、埴輪は古墳の上に並べられるものですが、古墳ではない集落の一角から、密集して大量に出土したのは全国で初めてのことでした。昭和61年(1986年)には、この埴輪群は学術的にも大変貴重なことから、“国の重要文化財”に指定されています。

 平成の発掘調査では、古墳時代の竪穴建物跡が多数発見されました。特に、遺跡の集落跡からは、鎌倉時代ごろの畠跡が確認され、遺跡の大部分が耕作地へ変化したことがわかりました。

 令和の発掘調査では、保存状態の良好な畠跡がより広い範囲で発見され、平成の調査と合わせると、中世の畠跡としては、県内最大規模となっています。

   鎌倉時代から室町時代にかけての畠跡

 令和の発掘調査は、山陰自動車道の未開通部分である北条道路の建設に伴う遺跡調査です。今回の調査では、新たに4基の古墳と板石を組んで作られた4基の箱式石棺が発見されています。

 令和の発掘調査の最大の収穫は、古墳時代から室町時代までの生活の痕跡を発見できたことです。今から約1700年前の古墳時代前期の竪穴建物跡や井戸跡などが出土し、竪穴建物は60棟以上見つかり、建物跡が重なり合っていることから、同じ場所で建て替えながら住み続けたことがわかります。

     古墳時代の竪穴建物の遺構(柱穴)

 さらには、古墳時代後期には、新規の古墳の発見から、遺跡が墓地として利用されていたこともわかりました。平安時代末期の建物跡も5棟確認され、鎌倉時代から室町時代にかけての広大な畠跡も発見され、長瀬高浜遺跡周辺では長い年月にわたって人々が生活を営んでいたことが明らかになりました。

 しかしながら、室町時代後期から江戸時代にかけて飛砂による白砂の堆積が活発化し、天神川上流から運ばれる大量の土砂の流出と堆積が相まって、長瀬高浜遺跡は砂丘地の奥深くに埋もれてしまったのです。

 もしも、バイパス道路建設工事が行われなかったならば、長瀬高浜遺跡は永遠に日の目を見ることがなかったのかもしれません。発掘調査は令和6年で終了しましたが、出土品等が湯梨浜町羽合歴史民俗資料館に展示されていますので、是非ご覧ください。

 歴史民俗資料館は湯梨浜町役場のすぐ隣にあります

            長瀬高浜遺跡は湯梨浜町にあります

(注1)ポンペイについては、『ローマ人の物語 Ⅷ』(著者 塩野七生 発行 新潮社)P254~P273に記載されていますので、ご一読ください。

〈 追記 〉

 今回のブログは、令和6年10月10日に湯梨浜町ハワイアロハホールで開催された、長瀬高浜遺跡50周年 湯梨浜町町制施行20周年 記念事業「砂とうみの物語」の記念講演を拝聴し、湯梨浜町羽合歴史民俗資料館を見学し、さらには、購入した冊子等を参考にして作成しました。関係者の方々のご尽力に対して敬意を表し、感謝申し上げます。