謎に包まれた長瀬高浜遺跡
梨楽庵

長瀬高浜遺跡見学会の様子(令和6年11月9日)

見学会では出土したばかりの土器を見ることができました
昭和61年(1986年)11月16日、重要文化財指定記念シンポジウム「大量の埴輪は何を語るか」が旧羽合町で開催されました。旧羽合町長、秋田彌太郎氏は、シンポジウムのために作成された記念冊子のあいさつ文の中で、発見当時の驚きを次のように述べられています。
「昭和55年の暮れに近い頃、北西の季節風がみぞれをもたらす冬のはじまり、長瀬高浜複合遺跡から、大量の埴輪がごっそりと出土しました。このニュースは全国に衝撃を与えました。(中略)質量ともに日本一と折紙のついた埴輪が、破片のままではあるが、大量に保管され、その一部は、その当時のままに復元され、一つの造形物として私達の眼の前に展示されています。(中略)砂に埋もれていたものが1,500年ぐらいたって、私たちの前に姿を現し、ました。この謎解きは、私たちに古代のロマンをかきたててくれます」

長瀬高浜遺跡の埴輪群が出土した時の様子です
出土した埴輪(注1)の内、確認できた埴輪の総数は145体にもなります。一般に、これまでの通説では、埴輪は主に祭祀用として古墳の上や周辺に並べられるものですが、「古墳ではない集落の一角から大量に出土」したのは、全国初の大発見だったのです。学術的にも貴重な埴輪群なので、“国の重要文化財”に指定され、冒頭の記念シンポジウムが開催されたのです。
前回のブログで紹介しましたが、昭和、平成、令和の3度の発掘調査では竪穴建物跡をはじめ、多くの遺構や遺物の新発見がありました。しかし、長瀬高浜遺跡の埴輪が、なぜ集落の一角から大量に出土したのかについては、発見から51年経った今も謎に包まれているのです。その理由は、埴輪が作成された古墳時代の日本には、まだ文字がなく、書き残された記録が全く残っていないからです。

家形埴輪です。右側は入母屋(いりもや)式の建物で、大屋根に5本の鰹木(かつおぎ)がのっています。(注2)高さは69.1㎝

甲冑(かっちゅう)形埴輪です。高さは約92㎝。実物大の大きさです

朝顔形埴輪です。普通は円筒埴輪の上に壺(つぼ)をのせた形をしています。出土した110体以上のうち、高さ約80㎝~90㎝の大型の埴輪が約70%もありました

盾(たて)形埴輪です。盾面を後ろから円筒形の埴輪で支えています。盾面は約60㎝、横約40㎝で、全体の高さは約80㎝です

蓋(きぬがさ)形埴輪です。高貴な人の頭上にかざした蓋(日傘のことです)をイメージしています。先端の飾りは誇張して表現されています。高さは約60㎝。上の蓋の部分はスポンと抜けます。はめ込み式になっています
研究者の方たちは、文献記録がないながらもいくつかの説を発表されています。第一は、埴輪群の下から「井戸跡」が発見されたことから、水に関わる祭りごとをしたのではないかという説です。この説については、井戸が利用されなくなって、井戸穴が埋もれてしまった後に埴輪が置かれているため、水との関連性は低いと考えられています。
第二は、埴輪群が発見された時期からしばらくたって、集落跡が消えてしまうことから、集落の移転に伴う祭りごとをしたのではないかという説です。この説については、発見された埴輪の密集度が高く、また、並べられ方に規則性がみられないことから、埴輪群の発見場所で祭りごとが行われた可能性は低いと考えられています。
第三の説は、古墳に並べる前の「一時的な保管場所」であったという説です。埴輪の出土状況をよく見ると、「く」の字状になっており、東側に埴輪のない部分があります。おそらくは、東側に置かれていた埴輪は必要があって持ち出され、残りの埴輪は何らかの理由で必要がなくなり、そのままその場に残され、砂に埋もれてしまったのではないかと考えられています。現時点では、この説が最も有力な説です。

写真の中央部分から右側にかけて埴輪がありません
発見された埴輪群が古墳に並べる予定だったとすると、どこに並べる予定だったのでしょうか。長瀬高浜遺跡からは多数の古墳が発見されていますが、ほとんどが小規模な「円墳」です。円墳上に埴輪が並べられた様子も確認されていません。
一般的に長瀬高浜遺跡で発見された大量の埴輪を並べる規模の古墳は、大型の「前方後円墳」が想定されます。東郷池周辺では、5世紀前半に築造された「北山古墳」(注3)以後には大型の前方後円墳は造られていません。
以上の推論をもとにまとめると、長瀬高浜遺跡で発見された埴輪群は、北山古墳の次に造られる予定だった前方後円墳のために製造されたのに、何らかの理由で古墳(注4)の築造が中止となり、保管場所にそのまま残されたのではないかと考えられます。
そして、時々、残された埴輪群の中から円筒埴輪だけが抜き取られ、棺として使用され、残りの埴輪は放置され砂に埋もれてしまったのではないかと推察されています。
長瀬高浜遺跡から出土した膨大な量の埴輪群は、発見から半世紀以上経過した今なお、「古代のロマン」をかきたてています。令和の発掘調査は令和6年に終了しましたが、今後も謎解きの鍵となる新発見があるかもしれません。

湯梨浜町羽合歴史民俗資料館に出かけて、国の重要文化財を是非ご覧ください。埴輪が迫ってきますよ

国道9号線の南側が「昭和の発掘調査」区域で、北側が「平成」と「令和の発掘調査」区域です

国道9号線の左側(南側)の白い建物が「天神川流域下水道公社」です。この周辺一帯が昭和の発掘調査区域です。この地で発掘された長瀬高浜1号墳は、国道9号線の右側(北側)へ約300m離れた場所に移転し復元されています

長瀬高浜1号墳(円墳)は遺跡内で最大規模の古墳です
(注1)埴輪の分析の結果、製作年代は古墳時代中期の初め頃~中頃と推測されています。
(注2)鰹木(かつおぎ)…神社建築に見られる、屋根に設けられた部材です。古墳時代には皇族や豪族の屋敷にも用いられたが、現在では神社の屋根にのみ使用されています。本来は建物の補強が目的だったようですが、その後、装飾として発展し、神社の神聖さを象徴するものとなっています。
(注3)北山古墳…東郷湖の南西の丘陵に造られた県内最大規模の前方後円墳で、全長110m。
(注4)古墳時代…古墳時代の時期区分は、大きく前期、中期、後期の3つの時期に区分する考え方が一般的です。前期の始まりは3世紀半ば頃、中期の始まりは4世紀末頃、後期の始まりは6世紀初め頃、前方後円墳の終わりは6世紀末頃とされています。
〈 追記 〉
前回同様に今回のブログも令和6年10月10日に湯梨浜町ハワイアロハホールで開催された、長瀬高浜遺跡50周年 湯梨浜町町制施行20周年 記念事業「砂とうみの物語」の記念講演を拝聴し、湯梨浜町羽合歴史民俗資料館を見学し、さらには、購入した冊子『重要文化財 長瀬高浜のはにわ』『砂とうみの物語』等を参考にして作成しました。関係者の方々のご尽力に対して敬意を表し、感謝申し上げます。
