中国地方は鉄の一大産地
梨楽庵

写真①菅谷(すがや)たたら高殿です。日本で唯一現存する“たたら製鉄”の作業場です。国の重要有形民俗文化財に指定されています
すでにブログで紹介しましたが、長瀬高浜遺跡の埴輪群が砂に埋もれた要因の一つが“鉄穴(かんな)流し”でした。弓ヶ浜半島の形成に大きな影響を与えたのも鉄穴流しでした。一体、鉄穴流しとは何だろうかと、探求心が次第に高まってきました。
調べていくと、驚くことが次々と明らかになりました。何と、江戸時代から明治時代の中頃までは、中国地方は鉄の一大産地だったのです。中でも、島根県の出雲国と鳥取県の伯耆国が主力の生産地だったのです。そして、“鉄穴流し”が“たたら製鉄”と深い関係にあることもわかったのです。

黄色の〇印が江戸時代以降の「たたら場」です
図①をご覧ください。たたら製鉄の分布図ですが、中国地方の、特に、出雲国と伯耆国では、たたら製鉄がさかんに行われていたことがわかります。その理由は、たたら製鉄の主原料の「砂鉄」が大量にあったからです。図②③は砂鉄の埋蔵分布の様子です。砂鉄の分布が中国地方に集中していることが一目瞭然です。

図②日本列島の砂鉄の埋蔵分布の様子です

図③中国地方の山陰側に広く分布しています
砂鉄から鉄をつくる「たたら製鉄」については、小中学校の社会科では、全く学習しません。私たちが製鉄について学習するのは、明治時代の官営八幡製鉄所と、戦後の高度経済成長時の四大工業地帯について学習する時くらいです。高度経済成長の時代は、「鉄は産業の米」と言われ、製鉄業は日本経済を支える基幹産業の一つでした。
製鉄業の主原料は「鉄鉱石」と「石炭」から作られるコークスと少量の石灰石などです。コストを下げるために鉄鉱石と石炭は大量に海外から輸入する必要があるので、輸入に便利な太平洋岸側の海岸が埋め立てられ、次々と工業地帯が形成されたのです。
鉄鉱石と石炭を主原料とする現代の「製鉄業」と「たたら製鉄」は製法が異なります。室町時代の後期、いわゆる戦国時代には海外との交易もさかんでしたが、江戸時代になると、徳川幕府は鎖国政策を行っていたので、鉄鉱石や石炭は輸入されませんでした。それでは、どのようなやり方で鉄を生産したのでしょうか。
日本では古墳時代の遺跡から鉄器や鉄製農具が多数出土しています。湯梨浜町の長瀬高浜遺跡からも鉄製品が多数出土しています。大陸からやってきた渡来人が伝えた鉄の製造方法は、長い年月の中でより高度に技術が磨かれていったのです。
中国地方の奥山で鉄がつくられた最古の記録は、733年に編纂された『出雲国風土記』に、「諸(もろもろ)の郷(さと)より出す所の鐵(まがね)、堅くして、尤(もっと)も雑具(くさぐさのもの)を造るに堪(た)ふ」と記述されています。
さらには、927年に編纂された『延喜式(えんぎしき)』と呼ばれる平安時代の法律には、都へ鉄や鍬を納めることが定められていたのは、筑前国(福岡県)、伯耆国(鳥取県)、備後国(広島県)、備中国(岡山県)でした。つまり、10世紀ごろには中国地方は鉄の一大産地だったのです。
鎌倉時代から室町時代にかけては、「野だたら」と呼ばれ、屋外で鉄の製造が行われていたようです。その後も試行錯誤が重ねられ、室町時代末ごろには「鉄穴流し」が行われ、“高殿(たかどの)”と呼ばれた建物の中で、天候に左右されない鉄づくりが行われ始めたようです。

高殿の中の製鉄炉で行われた鉄づくりを“たたら製鉄”と呼んでいます。たたら製鉄は江戸時代初期から明治時代中期にかけて中国地方で最盛期を迎えました。その最大の要因は、冒頭の図②で示したように、鉄づくりの原料となる“砂鉄”が中国山地で大量に産出できたからです。
中国山地の広い範囲には“花崗岩”が分布しています。この花崗岩には「砂鉄」が含まれていて、風化作用によって花崗岩はもろくて崩れやすいため、風化の進んだ花崗岩を切り崩し、“真砂土(まさつち)”から砂鉄を採取するために鉄穴流しと呼ばれた作業が中国山地のあちこちで行われたのです。
鉄穴流しは、山の上の渓流から水路を通して水を引き込み、砂鉄を含んだ花崗岩の風化土を大量に水路に流し込む作業のことです。花崗岩の風化土でできた崖を掘り崩した場所を“切羽(きりは)”と呼んでいます。写真②

写真②花崗岩の崖を打鍬(うちぐわ)で掘り崩しています。雪の降る日も作業をしていました

写真③左から2番目が打鍬(うちぐわ)です。長さは1m80㎝ほどです
この場所では、打鍬(うちぐわ)写真③と呼ばれた鶴嘴(つるはし)状の道具を使って崖の低い所を掘り崩します。タイミング次第では崖上から大量の土砂が流れ落ちてくる危険な作業です。写真②
山の上の渓流には堰をつくり、貯水池がつくられます。貯水池に貯められた水は水路に流され、切羽(きりは)で崩された土砂を下流の「砂鉄選鉱場」まで押し流すのです。切羽から砂鉄選鉱場までの水路は「走(はしり)」と呼ばれ、傾斜は急で、所々に段差がつくられ、土砂が流れることで細かく砕け、砂鉄と砂の分離が進む工夫がされていました。

写真④取水堰から砂鉄選鉱場までは約2㎞です
出雲国に次いで「たたら製鉄」がさかんだった鳥取県日野郡の「砥波上鈩(となみかみたたら)」では、発掘調査の結果、取水堰から砂鉄選鉱場までの総延長距離がおよそ2㎞もあったそうです。写真④
砂鉄選鉱場では、「洗鍬(あらいぐわ)」を使って土砂をかき混ぜ、比重の軽い砂は川に流します。残った土砂は比重の重い砂鉄が多く含まれています。しかし、砂鉄の含有率を高めるために、次の水路に移して土砂をかき混ぜ、同じ作業を行います。写真⑤

写真⑤砂鉄を選鉱しています。右隅には砂鉄が積み上げられています
砥波上鈩では、大池・中池・乙池の3つの池に移し替えて含有量を高める工夫がされていました。たたら製鉄の最盛期には、鉄穴流しは中国山地の広い範囲で行われたため、膨大な量の花崗岩の風化土が削り取られ、山の姿そのものが変わってしまったと言われています。
川に流れ出た大量の土砂は、下流に流れ込み、川床が高くなり洪水の一因にもなりました。江戸時代にはたたら製鉄の経営者と農民との間でたびたび争そいごとが起きていました。解決策として、鉄穴流しは、秋の彼岸から春の彼岸までの時期、つまり農閑期に行われるようになりました。農作業ができない時期に鉄穴流しの労働者として働くことで、農民にとっては収入源となり、経営者側にとっては安定した労働力の確保ができたからです。
鉄穴流しについて興味関心が湧き上がり、鳥取県立図書館へ出かけたり、ネットで調べてみると中国地方で鉄穴流しやたたら製鉄がさかんだったことはわかったのですが、書籍やネットだけではなかなか具体的なイメージを描くことができませんでした。
どうしたものかと思案していると、島根県安来市に「和鋼(わこう)博物館」があり、たたら製鉄関係の展示物や映像資料が充実していることを知りました。「ここに行けば深掘りできるかもしれないぞ」、いざ鎌倉ならぬ、いざ安来!の高まる気持ちを胸に、たたら製鉄探求の旅がスタートしたのです。
ブログでは何回かに分けてたたら製鉄の学びの報告をしていきたいと思います。どうぞお付き合いいただきますようお願いいたします。
*主な参考文献と資料及び見学場所
『たたら製鉄の歴史』著者:角田徳幸(吉川弘文館)『たたらの実像をさぐる』著者:角田徳幸(新泉社)『鉄づくり千年物語 TATARA』鉄の道文化圏推進協議会 和銅博物館(島根県安来市)奥出雲たたらと刀剣館(島根県奥出雲町)鉄の歴史博物館(島根県雲南市)菅谷たたら山内(島根県雲南市)絲原記念館(島根県奥出雲町)
