農家民宿 梨楽庵ブログ

おぐら屋の伝統工芸品

梨楽庵

子…「お父さ~ん、来年の干支は何だったかなあ?」

父…「ええと…?確か…、あ!午年だったよ!」

 記憶は定かではありませんが、今から20年以上前のことだと思います。当時は部活動の指導で疲れた体を癒すために、鳥取県内の温泉地巡りを休日の楽しみの一つにしていました。

 中部地区は生活圏内なので、気軽に出かけることができるのですが、鳥取方面から米子方面を結ぶ山陰自動車道が未開通だったため、遠方の温泉地へは日帰りが難しく、足が遠のいていました。

 鳥取市の東隣の岩美町に、頭に手ぬぐいをのせて「湯かむり唄」を歌いながら柄杓(ひしゃく)で湯をかぶる珍しい風習が伝わる岩井温泉があることは知っていました。岩井温泉の歴史は古く、平安時代の初期まで辿ることができます。しかし、訪れる機会がなかなかありませんでした。

 ある時、意を決して、日帰り入浴ができる温泉旅館「明石家」に出かけました。明石家は創業300年、明治の文豪島崎藤村も宿泊した老舗旅館です。どっしりとした風格のある木造の大きな旅館だったと思います。館内は日本の伝統文化と郷土の伝統文化が取り入れられ、落ち着いた雰囲気が感じられるしつらえだったように思い出されます。

 木彫りの看板が立てられた、昭和の佇まいが感じられるお店に立ち寄ったのは、その日のことだったと思います。そのお店が「おぐら屋」でした。明らかに職人気質の風貌が感じられる高齢の方が接客をしてくださいました。

 その人こそ、「おぐら屋」9代目、鳥取県伝統工芸士の小椋昌雄さんだったのです。すぐに目にとまったのは、木彫りの十二支の干支人形でした。ひとつ一つがかわいらしく、個性的で、こんなに魅力的な干支人形に出合ったのは初めてでした。

 旅行が趣味の一つだったので、これまでにも全国各地を旅行した時に干支人形に出合い、気に入ったときには記念のお土産として買っていました。年の瀬が近づくと、百貨店の歳末商品売り場でもあれこれと探し求めていました。でも、なかなか心を奪われる出合いはありませんでした。

 おぐら屋の干支人形との出合いは、一目惚れに近い感覚でした。旅先や百貨店であれこれと品定めしていたのに、探し求めていたものは、故郷鳥取県の地元に存在していたのです。灯台もと暗し、だったのです。

 調べてみると、「おぐら屋」さんのご先祖は、轆轤(ろくろ)などを用いて木材からお盆やお椀などの普段使いの器物を制作する“木地師(きじし)”でした。

 原料となる木材を求めて西日本各地を回っていたご先祖は、今から200年ほど前に、鳥取市吉岡に居を構え、その後、岩井温泉に移住し、ろくろを挽いてお盆や茶道具、人形やコマなどを制作され、岩井温泉を訪れる温泉客のお土産品として根強い人気に支えられていたのです。“木彫十二支”は8代目、小椋幸治さんが発案し、鳥取県の伝統工芸品に選ばれています。

 木彫十二支に一目惚れした私は、翌年の干支の“寅”を購入しました。そして、コツコツと11年かけて、定期的に購入し、十二支を揃えようと決心したのです。ところが、なかなか「おぐら屋」さんまで足を運ぶ機会は訪れませんでした。

 鳥取市内の中学校に勤務経験のあった私は、同じ職場で勤務したことはありませんが、ある時、面識のあった小椋幸人先生が岩美町のご出身であることを知ったのです。

  「小椋、岩美町?もしかしたら、小椋先生のご実家はおぐら屋さんなのかもしれないな。だって、9代目の昌雄さんとお顔がそっくりだから」そんな疑問を抱いていました。

 後日、たまたま地元紙で小椋先生のご実家が「おぐら屋」であり、昌雄さんは実父であり、幸治さんは祖父であることを知ったのです。その後も小椋先生とは研修会等でお会いする機会はありましたが、こちらから「おぐら屋」について触れることはしませんでした。

 時は流れ、私は定年退職し、一つ年下の小椋先生も翌年、定年退職されました。退職を機に、私は農家民宿「梨楽庵」を起業しましたが、一年後にコロナ騒動が起こり、農家民宿は開店休業状態でした。

 令和4年になり、ようやく収束の兆しが見え始めた頃、丸由百貨店(旧鳥取大丸)で小椋先生ご夫妻による「おぐら屋」の木彫十二支の実演と展示販売が催されることを知ったのです。驚いたことに、小椋先生は10代目を継がれていたのです。

 久方ぶりにお会いできるのを楽しみにしながら、人出の多い週末を避けて、週明けに丸由百貨店5階の展示会場へ出かけました。挨拶を交わした後、早速、木彫十二支を注文しました。お話によると、定期的に展示販売をされているとのことでした。

 手元に“寅”が一つあるので、最初は、とりあえず来年の干支だけを購入しようと考えました。しかし、1年に1個だと、手元に1個あるので全部が揃うには10年もかかります。第二の人生の残り時間がどの程度あるのかは誰にもわかりません。

 考えた末、思い切って、11個の親子セットを注文することにしたのです。12個を取り揃え、年中飾っておけば、毎年1個の干支人形を楽しむよりも12倍の楽しみが毎日訪れると考えたからです。

 在庫があるものの、注文の品を全部取り揃えるにはしばらく時間が必要とのことでした。数ヶ月後に連絡が入り、ありがたいことに、梨楽庵に直接納品していただけることになりました。納品の日は、作品制作の苦労話や先代や先々代のお話など、ご夫婦と楽しいひと時を過ごすことができました。

 高齢となった私の父は、果樹園を縮小し伐採した梨の木を山の倉庫に保管していました。20年以上経っているにも関わらず、幸いなことに、朽ち果てることなく、木工作品に蘇らせることができました。

 親子セット24個をどのように飾ろうかと悩んだとき、地元の木工作家に依頼した置物台が親子セットの台座として役立ったのです。私たち夫婦二人で作成した手作りの透明ケースに収めて、今は床の間に飾っています。これぞまさしく、木彫十二支と梨の木の台座と飾りケースの“手仕事3つのコラボ作品”です。

 令和5年12月の上旬には、地元のTV局が「新ふるさと百景」という番組で「おぐら屋」さんの手仕事の伝統文化について放映していました。

 中旬には、地元紙の1面で「干支人形、100年の節目」の見出しで、ご夫婦の人形作りの様子を写した写真と共に、大きく取り上げられていました。

 TV番組を見ていると、先々代から受け継いだ100年の伝統を真摯に受け継ごうとする小椋先生の気概が感じられました。番組の後半、奥様が「夫婦だからこそざっくばらんに話もできるし、私は今、すごく幸せです」と笑顔で語られていました。

  「そうですよね、奥様。だって、あなたのご主人のお名前は、“幸人”さんでしょ。幸せな人とご結婚されたのですから、お幸せになられたのは、当然ですよ」またいつか、ご夫婦とお会いできる日を楽しみにしています。

 木彫十二支が人々を引きつけるのは、伝統工芸士のお母様を含め、制作者である小椋先生ご夫婦の温かなお人柄に人々が魅了されるからなのかもしれません。来年度も健康にご留意されて故郷鳥取の手仕事文化を盛り上げてください。

皆さま、一年間お世話になりました。また、12年後にお会いしましょうね。お元気でお過ごしください

〈 追記1 〉

  「おぐら屋」さんについて詳しいことをお知りになりたい方は、「おぐら屋」さんのホームページを是非ご欄ください。1964年(昭和39年)は前回の東京オリンピックが開催された年です。何と、その年の年賀切手の図案に「おぐら屋」さんの“辰(たつ)”が採用され、木彫十二支が全国的に知られるきっかけになったそうです。

 さらに、2015年(平成27年)には“未(ひつじ)”が年賀切手の図案に採用され、2023年(令和5年)、11月1日には、「おぐら屋」さんの“辰(たつ)”を原画にした「令和6年用年賀郵便切手」が発売されたのです。

     令和6年用 年賀郵便切手

 地元紙によれば、辰人形は前年の2月から作成を開始し、年明けの1月末までに2,400個を完成されるそうです。1日当たり6個~7個を作成されていることになります。1個1個がすべて手作業です。並々ならぬ根気と集中力が必要です。

 おそらくは、木彫干支人形が届けられるのを楽しみにしている全国各地のお客様の顔を思い浮かべながらお仕事をされているのではないでしょうか。小椋先生と奥様、そして、お母さま、来年も健康に留意されて益々ご活躍ください。応援していまーす!

*昨年のブログに修正を加えて再掲載しました。令和6年12月13日付の地元紙には一面トップ記事として大きな写真入りで紹介されていました。さらには、地元のTV局でも放送されていました。「おぐら屋」さんの干支人形は、今や毎年恒例の郷土の風物詩となっています。

〈 追記2 〉

 令和8年元旦の地元紙を読んでいると、天皇ご一家が「うまの伝統工芸品」をご覧になられている宮内庁提供の写真が掲載されていました。愛子様が手にしておられる、やや大きめのうまの工芸品を両陛下も笑顔で見つめられていました。

 中央に座られている天皇陛下の御前のテーブルには、小型の4つのうまの工芸品が並べられていました。目を凝らしてよく見ると、何と、その一つが“おぐら屋の午の干支人形”だったのです。

 小椋先生は一言も自慢されませんでしたが、おぐら屋の“木彫十二支”は天皇家への献上品だったのです。そんな貴重な作品と出合わせていただいたこと、そして購入させていただけたことを大変ありがたく思っています。