農家民宿 梨楽庵ブログ

日本一だった倉吉の千歯扱き②

梨楽庵

    千歯扱き(倉吉博物館所蔵)

 千歯扱きは、櫛状に並んだ鉄製の歯(刃)の上に稲穂をのせて、手前に引いて稲穂から籾(もみ)をむしり取る道具のことです。効率が良く、一度にたくさんの稲を扱(こ)くことができるので、そう呼ばれました。百とか千は数が多いことを意味する言葉なので、歯(刃)がたくさんついているので千歯という漢字が使われました。

 千歯扱きは、台木(だいぎ)と呼ばれた角材に鉄製の歯を櫛状に横に並べたものです。鉄製の歯は穂と呼ばれました。穂は、小さな釘(くぎ)を使って台木に取り付けられています。穂の形状や本数は一律ではなく、生産地や製造者によって違いがありました。

 千歯扱きが登場するまでは、稲穂を扱くには“扱管(こきくだ)”が使われていました。扱管とは、2本の竹製の管を麻縄などの紐でつないだ道具です。使い方は、竹管の間に稲穂をはさみ、稲束を手前に引いて籾(もみ)をむしり取ります。江戸時代の半ばごろまでは、扱管が広く使われていました。

扱管(米こきくだ)農林水産技術会議事務局筑波事務所所蔵

   扱管を使う様子(『民家検労図』より)

少し長い竹を使用したものは扱箸(こきばし)と呼ばれました(『農業全書』より)

 扱管と比べた場合の千歯扱きの実際の効率は2倍から3倍程度だったようです。しかし、2,3日かかった仕事を1日で終えることができるとすると、千歯扱きの効率はたいへん良く、農民たちの農作業の負担が軽減されたことは間違いありません。

 千歯扱きがいつ誕生したかは明確ではないようですが、江戸時代の18世紀の初めごろに、竹製の歯を使った千歯扱きが使われ、その後、鉄製の歯を使った千歯扱きが使われるようになったようです。

 東海地方や関東地方では麦の栽培がさかんだったので、竹や木で作られた穂(刃)を使った千歯扱きが使われていました。竹製や木製の千歯扱きは、稲を扱くには穂先が弱く不十分でしたが、麦を扱くには適しており、鉄よりも安価だったので広く普及しました。

 次に、千歯扱きの使い方について説明します。千歯扱きは、台木と穂(刃)が取り付けられた本体だけでは使用できません。実際には、脚を取り付け、踏み板をおき、扱(こ)いた籾(もみ)が飛び散らないように、筵(むしろ)や竹製の箕(み)を取り付けて受け止めるようにしました。

踏み板を取り付け、足で踏んで動かないようにします(倉吉博物館所蔵)

農業づくし(部分)作者は歌川広重です。千歯扱きの作業の様子が描かれています

籾(もみ)は筵(むしろ)や箕(み)で受け止めました。この箕はわが家にありました

 それでは、明治から大正時代にかけて倉吉市の代表的な産業だった千歯扱きについて説明します。倉吉では千歯扱きを「千刃」と表記しました。倉吉においては、千歯扱きの製造は江戸時代の19世紀前半にはすでにさかんだったようです。しかし、いつ頃始まったのかは明確ではありません。

 倉吉における千刃製造の起源については、『技術史話雑稿』(昭和18年刊)の中で、多賀義憲氏が古老の話を紹介しています。「倉吉稲扱きの起源は元禄の初に倉吉町に佐平なる人があり、鉄砲鍛冶たるべく志して、泉州堺に赴き其の技術を修得せんとしたが、つらつら倉吉地方と農村との関係を考慮して鉄砲製造よりも稲扱製造の有利なることに想い到って、ここに初志を翻し、稲扱の製法を修してかえり、倉吉鍛冶町で始めて、稲扱きの製作を開始したもので、それが元禄6年(1693年)のことであったそうな」と書き残しています。

 この古老の言い伝えをもとに、17世紀後半の元禄年間が創業時ではないかとされていました。

 これに対して、横浜市歴史博物館で2013年に開催された展覧会「千歯扱き 倉吉・若狭・横浜 」において、明治22年(1889年)2月4日の『官報』に掲載された「倉吉稲扱製造景況」の記事を紹介し、安永年間(1772年~1780年)に倉吉鍛冶町の金具屋光右衛門が泉州堺の稲扱をまねて2,3の鍛冶屋と稲扱製造を始めたことが始まりではないかと推定されています。

 さらに調べていると、朝岡康二氏が『西日本の千刃扱きーその発生と展開―』(1981年)の中で、大阪の近郊にあって鍛冶製品の生産地として名をはせた三木町(現在の兵庫県三木市…「金物の町」と呼ばれています)の鍛冶業の発展の様子を紹介し、倉吉の千刃扱きの発展の経過について次のように推論されています。

 「倉吉の千刃扱きも又大阪を中心とした問屋流通に組み込まれていた。おそらく倉吉で最初に作られたのは穂先の鉄の部分のみであって、(中略)これらの鉄穂は大阪あるいは堺あたりに荷出しされて、そこで台木に組み付けられて千刃扱きとなって売りに出される。(中略)その後に組立ても段々と倉吉でおこなうようになって倉吉鍛冶町は釘(くぎ)鍛冶の町から千刃鍛冶の町へと発展」していき、三木町を含む播州鍛冶が急速に発展した18世紀後半から19世紀前半に、倉吉も有力な産地となったのではないかと説明しています。

 倉吉市は江戸時代から明治にかけて洪水や大火に見舞われたことが多く、千歯扱きに関する古い時代の資料は少ないようです。しかし、伝承や先人の貴重な文献等で千歯扱きのしくみと誕生の歴史を知ることができて、私は十分に満足しています。

 今回のブログでは、千歯扱きのしくみと誕生の歴史を中心にお伝えしました。なお、ブログの作成にあたっては、『千歯扱き 倉吉・若狭・横浜 』(横浜市歴史博物館)に収録されている倉吉博物館主任学芸員の関本明子さんの論文から多くのことを学ばせていただきました。ありがとうございます。

日本一の生産量を誇った倉吉の千歯扱き(倉吉博物館所蔵)