農家民宿 梨楽庵ブログ

東郷荘下地中分絵図って何ですか?①

梨楽庵

   『伯耆国河村郡東郷荘下地中分絵図』

    (東京大学史料編纂所所蔵)模写本

 “地頭”とか“荘園”という言葉を日本の歴史の時間に習ったことを覚えておられますか?今回のブログは、鎌倉時代の中頃の鳥取県中部の歴史のお話です。

 日本史の教科書の中に、身近な郷土の歴史が取り上げられることはほとんどありません。教科書では、都を中心とした政治や経済、文化の流れを学習する構成になっているからです。限られた学習時間の中では仕方がないのかもしれません。

 限定された時間にも関わらず、湯梨浜町に関わる歴史の史料が、出版社は異なるものの、日本史の教科書でたびたび掲載されてきています。取り上げられた歴史の史料は『伯耆国河村郡東郷荘下地中分絵図』と言います。

 奈良時代に誕生した荘園が鎌倉時代になって大きく変化していきます。その変化の様子が具体的にわかる全国的にも貴重な史料が、この絵図なのです。

 最初にキーワードとなる歴史用語を簡単に説明します。“荘園(しょうえん)”とは、大きな権力と財力を持っていた寺院や神社、そして貴族たちが、開墾によって田畑を切り開き、自分の領地とした農園のことです。

 和銅3年(710)、唐の都の“長安(ちょうあん)”を手本として奈良に平城京が作られ、70年余り続いた奈良時代が始まりました。当初は、土地も人民も朝廷のものという方針で国づくりを始めました。

 戸籍に登録された6歳以上の全ての人に“口分田(くぶんでん)”を与え、税を取るなどの仕組みも整えました。ところが、自然災害や人口増加などによって、口分田が不足する事態となりました。

 朝廷は、食料を確保するために、天平15年(743)、「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)」を発布し、新たに開墾した土地の所有を認めました。この法律がきっかけとなり、全国に荘園が広がったのです。

 次は、“地頭(じとう)”です。地頭とは、鎌倉幕府によって定められた役職で、現場の土地を管理し、税を取り立てる役目があります。将軍の家来である御家人が任命されました。鎌倉時代の中頃になると、地頭が武力を背景に土地の支配権を強めるようになりました。

 最後は“領家(りょうけ)”です。平安時代になると地方の豪族なども開墾を行い、土地の所有者(領主)となりました。しかし、地方には都から派遣された国司(こくし)が勤務する役所の国衙(こくが)があり、国衙に税を納め、支配を受けなければなりませんでした。国司は今の知事で、国衙は県庁にあたります。

 そこで、地方の領主は国衙の支配から逃れ、土地を保護してもらうために、都の有力な貴族や寺院や神社に、自分の所有地を“寄進”するようになったのです。“寄進”とは、形式的には貴族や寺社の土地としますが、実質的な支配は領主自身がします。寄進を受けた側の貴族や寺社を“領家”と言います。もちろん、保護してもらうための見返りに、地方の領主は年貢を都の領家へ納めなければなりませんでした。

 地方の領主にとっては、国衙の役人とはたびたび顔を合わせなければならないので、不満があっても従わざるをえません。一方、都の貴族たちとは顔を合わせることもなく、それなりの報酬(年貢)を与えればいいので気苦労のレベルが違います。貴族や寺社にとっても権威を貸すだけで全国各地から集まる収益を合わせると、膨大な量になったのです。

(次号へ続きます)

*参考文献…『東郷町誌』『羽合町史 前編』『新修羽合町史』『保存版 東郷荘絵図 徹底解説ガイド』平成21年(2009年)湯梨浜町企画課