東郷荘下地中分絵図って何ですか?④
梨楽庵

絵図の北側部分(絵図の下側)の拡大図
次に絵図の北側(下側)をご覧ください。東郷池から日本海に流れ出る川が橋津(はしづ)川です。絵図の西側にあり、西郷と北條郷の間を南から北に向かって流れ、河口付近で橋津川と合流している川が北條河(天神川)です。
東郷池の西側にあり、橋津川と北條河に挟まれた“伯井田”の平地は格子状の田畑が広い範囲で描かれています。この地は現在の羽合平野にあたります。 伯井田の“伯”は万葉仮名では“ハハ”の字に用いられ、伯井田は“ハハイダ”と読めます。

その後、時代が下り、“羽合田”“羽合郷”“羽合町”へとつながる“ハワイ”の地名が確認できる最も古い資料だと言われています。伯井田は広い土地なので、朱線を引いて分け合ったのです。
橋津川の東側の山々は“馬野(うまの)”と記入されています。現在の馬ノ山にあたります。馬の飼育がされていた牧場も見通しによる境界として朱線が引かれ中分されています。

馬は躍動感のある表現で描かれ、領家分に5頭、地頭分に5頭が配分されています。橋津川に沿った付近には、地頭分、領家分ともに集落が見られます。また、領主の館と思われる大型の建物も1つずつ描かれています。
舟の交通路としての津(港)の確保は重要なので、橋津川の河口部の東岸は領家に、西岸は地頭に配分されています。しかしながら、中分とはいえ、大湊宮を所有した領家に有利な取り扱いがなされたように思われます。
その理由は、地頭分となった「東小垣」と「西小垣」の地域は、北条河の洪水による被害を受けやすい土地だからです。さらには、西小垣の大部分は砂丘地で、高い砂山もあり、耕作が困難だったことが推測されます。
西小垣の河の近くには田畑を示す格子状の表現が描かれていますが、東小垣側には全く描かれていません。東小垣側は耕作困難な砂丘地だった可能性があります。なお、砂山の上に描かれた朱色のものは“牓示(ぼうじ)”と呼ばれ、東郷荘と北條郷の境界として描かれたと考えられています。

次は、東郷池に目を向けてください。池に二艘(そう)の小舟が描かれています。一人乗りの小舟には、笠をかぶった人物が描かれています。絵巻物などに描かれる漁民の姿と同じ表現方法なので、漁業を営んでいることを表現していると言われています。

二人乗りの舟に乗っている人物は、烏帽子(えぼし)をかぶっていることから測量技術員だとする説があります。なお、荘園絵図の中に人物が描かれているのは、唯一この絵図だけだと言われています。
以上で、下地中分絵図から読み取れる領家分と地頭分の領域の説明を終えます。
(次号へ続きます)
*参考文献…『東郷町誌』『羽合町史 前編』『新修羽合町史』『保存版 東郷荘絵図 徹底解説ガイド』平成21年(2009年)湯梨浜町企画課
