農家民宿 梨楽庵ブログ

江戸時代の鳥取城の変遷

梨楽庵

 前々回のブログ「日本百名城 鳥取城跡①②」で、戦国時代から江戸時代初期までの鳥取城の略歴を紹介しました。今回は、江戸時代の鳥取城の城郭を中心とした移り変わりについて紹介します。

   〈 鳥取城の整備拡張期 〉

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが終わると、池田輝政は52万石、初代姫路城藩主となりました。輝政の弟、池田長吉は因幡国東部6万石の鳥取城主となりました。

 慶長20年(1615)、大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶと、元和3年(1617)、池田光政が播磨国姫路城主から国替えとなり、因幡国と伯耆国、32万石の鳥取藩主となりました。

 寛永9年(1632)、岡山藩主、池田忠雄(ただお)が31歳で亡くなり、わずか3歳の光仲が跡を継ぐことになりました。しかし、幼少だったため、いとこ関係にある鳥取藩主、池田光政と岡山藩主、池田光仲の国替えが行われました。

 これ以降、池田光仲は初代鳥取藩主として、池田光政は初代岡山藩主として、池田家は幕末まで藩政を担うこととなりました。

 鳥取藩初代藩主 池田光仲 在位期間 54年間

 関ケ原の戦い以前の鳥取城は久松山(きゅうしょうざん)の山頂部を中心とする山城の形態だったと考えられています。池田長吉が鳥取城主となり、その後、池田光政が受け継ぎ、平時の城として山麓部を中心に城下町が形成されていきました。

元和5年(1619) 因幡国鳥取絵図(岡山大学付属図書館所蔵)

 元和3年(1617)に鳥取城主となった光政は、元和5年(1619)から鳥取城の整備に取り組み、長吉時代の城構えを大規模に拡張していきました。寛永9年(1632)の光政の岡山への国替え以降は、初代鳥取藩主光仲へと受け継がれました。

延宝8年(1680) 鳥取城修覆願図(鳥取県立博物館所蔵)

         〈 城下町  鳥  取 〉

 鳥取の城下町は、久松山を中心に、同心円的に広がっています。城の周辺には上級藩士の広い屋敷が並び、その周囲には中級藩士の屋敷が配置されました。内堀の外には町人町が整然と配置され、袋川(ふくろがわ)が外堀として城下を取り囲んでいました。寺院は久松山の山麓と寺町に配置されました。

 享保3年(1718)、3代吉泰(よしやす)の藩主居所が整備され、およそ100年をかけて、城構えが完成しました。元禄5年(1692)に落雷によって山頂の天守は焼失していましたが、二ノ丸には藩主御殿が建てられ、二ノ丸三階櫓が天守に代わる城の象徴となっていました。

   〈 鳥取城の被災と再建期 〉

 享保5年(1710)、鳥取藩の歴史上、最も大きな被害を与えた大火事が発生しました。この享保の大火は“石黒火事”と名付けられています。城下から発生した火事でしたが、強風の南風に煽られ、城内へも延焼し、城の中心施設である二ノ丸、三ノ丸、天球丸が全焼したのです。(注1)

 この絵図は、大火の翌年、享保6年5月に幕府に鳥取城の修覆を願い出た時の控図です。(鳥取県立博物館所蔵)

 3代藩主吉泰(よしやす)は鳥取城の城郭の完成時に城主であったと同時に、鳥取城復旧再建事業の当事者となったのです。池田長吉時代から計算すると、およそ100年の年月をかけて完成した鳥取城でしたが、わずか2年後には大火によって大部分が焼失してしまったのです。

 藩主吉泰を含め、当時の人々の心境は想像を絶するものがあります。再建には、何と130年以上もの月日を要したのです。享保の大火によって鳥取藩の財政は急速に悪化し、財政再建のために、藩士や領民に過酷な負担を強いることとなりました。

 そのため、元文4年(1739)、吉泰が亡くなる直前には、鳥取藩全域を巻き込んだ大規模な百姓一揆が起こっています。

 享保20年(1735)二ノ丸三階櫓は再建されましたが、御殿は再建されませんでした。二ノ丸御殿が再建されたのは、弘化3年(1846)、焼失してから136年後、10代藩主慶行(よしゆき)の時代でした。菱櫓、表御門も再建され、ようやく鳥取城の再建事業は完了したのです。

この絵図は、弘化4年(1847)5月に、二ノ丸の拡張を幕府に願い出たときの控図だと言われています。(鳥取博物館所蔵)

 安政5年(1858)には、三ノ丸が拡張され、南側に“籾蔵(もみぐら)”が建設されました。文久3年(1863)には扇御殿と宝隆院庭園が造営されました。扇御殿跡には、明治になって仁風閣が建設されています。

 御殿と庭園は、11代藩主池田慶栄(よしたか)が若くして急死し、未亡人となった宝隆院の心を慰めるために、12代藩主池田慶徳(よしのり)が整備しました。慶応3年(1867)には、西坂下御門が増築されました。

(注1)城下の石黒三太兵衛の屋敷が出火元だったので、石黒火事と呼ばれています。城内は全焼し、侍屋敷506軒、町家597軒、土蔵57棟、寺院23か所が全焼しました。(出典…鳥取市編「鳥取藩史第6巻〉事変志3:626頁~629頁:享保5年石黒火事」)