鳥取城の城跡めぐり②
梨楽庵

それでは、鳥取城跡の案内板をもとに城跡めぐりをしていきます。
①大手登城路(おおてとじょうろ)…元和7年(1621年)、城の正面玄関として整備されました。平成30年(2018年)に、擬宝珠橋(ぎぼしばし)が復元されました。令和2年(2020年)には、中ノ御門表門が復元され、令和7年(2025年)3月に渡櫓門(わたりやぐらもん)が完成しました。なお、藩主が参勤交代で江戸在住の時は、中ノ御門は閉じていました。

擬宝珠橋は城郭復元木造橋としては、日本一の長さです。(約37m)

②太鼓御門…登城の時刻などを知らせるために太鼓を打ち鳴らしたことが由来です。左右の石垣に櫓が渡り、一階部分が門となる“渡櫓門”でした。櫓の桁行が24mもある城内最大級の渡櫓門でした。将来的には復元される予定です。


イメージ図です。復元される日が待ち遠しいです。

③三の丸跡…寛文3年(1663年)に御殿が造られました。鳥取城の藩主御殿は池田光政が造営した二の丸御殿でしたが、御殿の背後にある崖からの落石があるために、三の丸を藩主御殿とする大改修工事が行われました。享保3年(1718年)に完成し、それ以降、藩主の居住地となっています。現在は、県立鳥取西高が建っています。

天球丸からの眺めです。手前が県立鳥取西高です。

④巻石垣まきいしがき)…亀の甲羅状の石垣は、設置された個所の石垣が文化4年(1807年)頃に崩れそうになり、それを防ぐ目的で築かれました。角(かど)を持たない形から、巻石垣(まきいしがき)とも言われ、川の護岸や港の突堤に関わりのある職人が築いたと言われています。こうした石垣が城に用いられる事例は鳥取城以外にはなく、貴重であることから絵図などをもとに復元しました。(平成24年4月鳥取市教育委員会)


⑤天球丸(てんきゅうまる)…標高50mで、最も高い位置にある曲輪(くるわ)です。池田輝政の妹で、池田長吉の姉であり、池田光政の大叔母にあたる、天球院の居館があったことが名前の由来です。享保5年(1720年)の大火によって、天球丸にあった建造物は焼失しました。

巻石垣の上の平らな石垣の上が“天球丸”です。

天球丸が広い敷地だったので驚きました。

天球丸の上から見ると、巻石垣が天球丸の石垣の崩落を防いでいる様子がわかります。

天球丸には巨木の2本の松がありました。鳥取県立博物館に問い合わせたところ、江戸時代の天保年間(1830年~1844年)に植えられたようです。樹齢190年ほどのようです。

⑥表御門…藩主の御殿だった二の丸の入り口に造られた櫓門

中央部分に見えるのが表御門です。

中央部の左右の石垣の上に表御門がありました。天球丸からの写真です。

この両側の石垣の上に表御門がありました。二ノ丸の入り口になります。

⑦二の丸…元和7年(1621年)頃までに池田光政が造成し、藩主御殿や櫓などが整備された曲輪(くるわ)であり、本丸と呼ぶ場合もありました。享保3年(1718年)、三の丸に藩主御殿が移るまでの城内の中心地でした。

現在、二ノ丸跡地は鳥取市の桜の名所の一つになっています。

⑧菱櫓(ひしやぐら)と走櫓(はしりやぐら)…二の丸の城下側に、二層の菱櫓と走櫓が造られました。


⑨登石垣(のぼりいしがき)…二ノ丸への進入を防ぐために、嘉永2年(1849年)、二の丸が拡張されたときに造られました。



⑩二ノ丸三階櫓…高さ約18mで、国内最大規模でした。元禄5年(1693年)に山頂の天守が落雷によって焼失してからは、この三階櫓が天守の役割を果たしていました。享保5年(1720年)の大火によって、二の丸の建物は全て焼失しましたが、三階櫓は藩の権威を象徴する建物であり、元文元年(1736年)に再建されました。最終的に、二の丸にあった御殿などの建造物が全て再建されたのは、大火から126年後の弘化3年(1846年)でした。



(次号へ続きます)
