それぞれの初心
梨楽庵

今から10年前の現職時代のことです。平成28年の11月に広島に出張する機会がありました。広島は私が大学生活を過ごした都市であり、広島市民球場でアルバイトをした経験もあり、思い出が詰まった第二の故郷です。
この時の出張では忘れ得ぬ収穫がありました。武家茶道家元の上田宗冏(そうけい)さんの講演を聞くことができたことです。講演の中で、『風姿花伝(ふうしかでん)』に書かれている、「初心忘るべからず」という世阿弥(ぜあみ)の有名な言葉を紹介されました。
風姿花伝の後に書かれた『花鏡(かきょう)』には、初心には3つあると、説明を付け加えられました。3つとは、「是非の初心忘るべからず」「時時の初心忘るべからず」「老いの初心忘るべからず」の3つでした。初心は一つだと考えていた私には驚きでした。
会社で例えると、是非の初心とは、新入社員の初心です。がむしゃらにがんばる気持ちです。時時の初心とは、中堅社員の初心です。少しマンネリになりかけた時に振り返る初心です。老いの初心とは、管理職の立場にある人にも忘れてはならない初心があるという意味ではないかと私は受け止めました。
当時、日本将棋連盟会長だった羽生善治9段は、世阿弥の名言を新聞のコラムで次のように解説していました。
「これは物事を始めた時の気持ちを大切にする意味のみならず、人生の様々な段階の初心を忘れてはならないということだと理解している。将棋を覚えた時、プロの道を志した時、棋士となって将棋の世界の奥深さを知った時。それぞれの初心が進歩を続ける上で大切なのだと思う。」

今年の3月29日に鳥取市で将棋タイトル戦の一つの棋王戦が開催されました。五番勝負の最終戦だったので、注目度は高く、県外からも多くの将棋ファンが鳥取市を訪れ、大いに盛り上がりました。結果は藤井棋王が4連覇を達成されました。
4月になって、某紙を開くと、棋王戦を戦い終えたばかりなのに、今日からは東京で名人戦七番勝負が開幕するとのことでした。現在将棋の8タイトル中の6つを保持している藤井9段なので休む暇はないのでしょう。
その藤井9段が新聞社から名人戦に臨む心境を色紙に求められて書き記した言葉が“初心”だったのです。その理由について、次のように答えられています。
「対戦相手の糸谷9段は、研究よりも実戦における戦い方や変化を大切にされています。知識だけでなく、構想力や読みの力を試される場面が多くなりそうですね。“初心”と揮毫したのは、だからこそ初心を思い返し、純粋な気持ちで考えること自体を楽しんで指したいと思うからです」
令和の天才棋士藤井聡太さんもやはり、初心の大切さを重要視されていたのです。4月になり新年度が始まりました。それぞれの職場で、それぞれの立場で、今一度、自分自身の初心を見つめ直して、スタートしていきたいものです。
私も農家民宿『梨楽庵』を起業し、このホームページを立ち上げブログを書き始めた初心を思い返し、“おもてなし”すること自体と“ブログを書くこと”自体を楽しんでいきたいと思います。
〈 追 記 〉
中国新聞によれば、茶道上田宋箇(そうこ)流は、16代上田宋冏(そうけい)家元(80歳)の長男、宋篁(そうこう)若宗匠(47歳)が17代家元を継承することを決定したと報道していました。
宋篁(そうこう)さんは、大学卒業後、東京の五島美術館で研修しながら、プロダンサーとして国内外で活躍した異色の経歴の持ち主です。若宗匠となり広島に戻ってからも、飲食店のメインプロデュースを担当するなど、茶の湯の間口を広げる活動に取り組んで来られています。
上田流は旧広島藩家老で武家茶人の上田宋箇が流祖です。元和5年(1619)、宋箇(そうこ)が初代藩主浅野長晟(ながあきら)と共に広島入りして以来、武家茶道の流儀を伝えてきています。

