東郷池?東郷湖?どっちなの?③
梨楽庵

伊能忠敬をリーダーとする測量隊が鳥取藩内を測量したのは、文化3年(1806)と文化10年(1813)の2回でした。この時以前に、すでに鳥取藩は国絵図を幕府に提出していて、鳥取藩は“東郷池”と認識していました。
忠敬測量隊は、鳥取藩の上級武士と接触があったはずです。なのに、なぜ忠敬は“東郷池”と記載しなかったのでしょうか。謎はさらに深まるばかりです。
「東郷池?東郷湖?どっちなの」問題がさらなる深みへはまってしまいました。この状況を五里霧中というのでしょうか。霧中の中を何とか抜け出す手掛かりはないのでしょうか。私は“夢中“になって手がかりを探し求めました。
暗中模索していると、博物館の学芸員さんから見せていただいた『鳥取県全図』のことを思い出しました。一枚物のこの地図は、平凡社「日本歴史地名体系特別付録」として作成された『輯製(しゅうせい)二十万分一図復刻版鳥取県全図』でした。
解説文を読むと、「輯製(しゅうせい)二十万分一図」は明治初期における日本の代表的な地図の一つで、参謀本部陸軍部測量局で明治17年(1884年)から着手された事業でした。
当時現存していた伊能忠敬の地図は陸地の輪郭と主要街道だけであり、幕命によって作成された国絵図は村の位置と距離の記載が主であり、そのままでは使用できないと判断されました。
「輯製(しゅうせい)二十万分一図」は、忠敬の地図と国絵図の欠点を補うために、内務省地理局・地質調査所・海軍水路部などで作成された地図を参考資料として編輯し製作された、当時の最新の地図でした。
その後、正式な地形図から編纂された『二十万分一帝国図』が完成すると廃止されましたが、驚くことに、昭和36年(1961年)頃まで一部はその姿を変えて生きながらえていたのです。
さて、平凡社が復刻作成した「鳥取県全図」には、“池”?“湖”のどちらが記載されていたと思われますか。答えは、“東郷池”でした。皆さんはどのように感じられましたか。江戸時代の諸資料を検討した明治政府の結論が“東郷池”だったのです。

平凡社が復刻作成した「鳥取県全図」(部分拡大)
五里霧中から抜け出すはずだったのに、新たな謎が待ち構えていました。参謀本部が“池”を選択した根拠はわかりません。なので、ここからは思考の翼を想像力という風の力を借りて考えるしかありません。
まず、私は全世帯を対象にアンケート調査を行った結果をもとに、「町は正式名称を国土地理院による“東郷池”のままとすることとし、今後は特別な場合を除き“東郷池”を使用します」という決定を支持したいと思います。
さらには、「団体などが“東郷池”または“東郷湖”のどちらを使用するかを強制しません。愛称としてどちらでも使用していただければよいと考えています。」と柔軟な判断をしています。最適解ではないでしょうか。
これまで見てきたように、“東郷池”なのか“東郷湖”なのかの根拠を考える際、歴史を紐解いてみると、江戸時代に幕命によって国絵図の作成が命じられたということは、鳥取藩が現地調査を行った上で、正式に承認しているということです。
正保年間(1644年~1688年)は鳥取藩主初代池田光仲の治世の時であり、万事手抜かりがないように詳細に現地調査が行われたにちがいありません。だからこそ作成までに4年もの歳月が必要だったのです。

正保の国絵図は正保年間(1644年~1648年)に作成されました
正保の国絵図以降に作成された元禄の国絵図も天保の国絵図も、再調査をして修正を加えながらも、原則として正保の国絵図の前例を踏襲し、“東郷池”と記載したと考えられます。明治になり参謀本部が作成した『鳥取県全図』にも“東郷池”と記載されたのは、やはり、国絵図が決め手になったのではないでしょうか。
では、なぜ忠敬は“東郷湖”と測量日記に記し、地図に記載したのでしょうか。この件については、次号で取り上げ、“どっちなの問題”のまとめとします。
