農家民宿 梨楽庵ブログ

橋津藩倉って何ですか?①

梨楽庵

    鳥取県保護文化財の橋津藩倉

 現在の鳥取県の県域は、江戸時代には池田家が治めていました。元和3年(1615年)、姫路城主だった池田光政(みつまさ)は、父の病死によって家督を継いだものの、幼少を理由(数え年8歳)に幕命によって、因幡国と伯耆国2か国、32万石の城主として鳥取へ“国替え”となりました。この時から、現在の鳥取県の県域とほぼ同じ領域の鳥取藩が誕生しました。

 池田光政は大規模な改修工事を行って城下の整備を進め、現在の鳥取市街地の原型を作り上げました。ところが、寛永9年(1632年)、岡山城主が病死し、わずか3歳の池田光仲(みつなか)が家督を継ぐことになると、幕府は再び幼少を理由に、いとこ関係にある“光仲”と21歳年上の“光政”の“国替え”を命じたのです。

 その結果、鳥取藩主だった池田光政は岡山城主となり、岡山藩主だった池田光仲は鳥取城主となり、これ以降、江戸時代の終わりまで、池田光仲を初代鳥取藩主とする池田家による藩政が始められたのです。

 鳥取藩には年貢米の貯蔵場所として藩倉(はんそう)が設けられていました。鳥取城内に1つ、家老の荒尾但馬守が町政を任せられた米子に1つ、そして、家老の荒尾志摩守が町政を任せられた倉吉に1つありました。これら3つの藩倉は、藩士へ給与として支給される“俸禄米(ほうろくまい)”の貯蔵が目的でした。

 鳥取藩は3つの藩倉以外にも、日本海の沿岸に9か所の藩倉を設置しました。これら9つの藩倉は、“灘倉(なだぐら)”と呼ばれました。鳥取藩は、藩の財政をまかなうために、俸禄米とは別に、天下の台所と呼ばれた大阪へ廻米(かいまい)し、鳥取藩の蔵屋敷に収蔵し、売却して現金収入を得ていたのです。9つの灘倉の中でも最古で最大だったのが、現在の湯梨浜町橋津(はしづ)の“橋津藩倉”だったのです。

 海岸沿いに9ケ所の“灘倉(なだぐら)”が設置されました

藩倉が置かれた橋津の起源について少しだけ触れておきます。起源は定かではありませんが、古くから“湊村(みなとむら)”と呼ばれていました。昭和6年に編纂された『奨恵社五十年史』には次のように記述されています。

「橋津村 往昔年代不明なるも一農家あり門田屋と号し住居したが、偶々(たまたま)中原与兵衛は河内国天野村の元住居を去って寛永七年(1630年)庚午廿一日橋津村へ来りハナソゲ山(以前学校所在地)を開墾して邸宅を構へ居住し天野屋と号した。此の二戸実に橋津村の始めである。夫(そ)れより八戸となり“八軒屋”と称した。別に寺奥に三戸あり“三軒屋”といふ。碇泊船舶に需要品を供給する業とした後十六年を経て正保二年(1645年)乙酉藩倉庫を此地に建築せらる。以来納租米数万俵其出入の便に充つる為め移住者を募集したとき数年ならずして八軒屋と三軒屋との間を連絡し遂に三百数十戸の一大村となり、橋津、湊の両村名を有し、嘉永年間藩命に依り橋津村と定めたという事である」(注1)

 要約すると、湊村は寛永7年(1630年)には門田屋と天野屋の2軒でしたが、その後、八軒となり、“八軒屋”と呼ぶようになり、正保2年(1645年)に藩倉が置かれ、年貢米の収納等の業務のために移住者を募ったところ、移住者が急増し、三百数十戸の大きな村となり、嘉永7年(1854年)に藩命によって“橋津村”と定められた、ということです。

(注1)…嘉永7年(1854年)だと言われています。

 ( 次号へ続きます )