農家民宿 梨楽庵ブログ

東郷池?東郷湖?再考

梨楽庵

倉吉駅から東郷温泉方面へ向かうと、この標柱が見えます

 前回のブログで湯梨浜町の中央部に位置する汽水湖を、東郷池と呼ぶのか、東郷湖と呼ぶのか、について取り上げました。結論は、どっちを使用してもよい、ということでした。

 しかし、NHKの取材の中で、新たな発見があり、およそ200年前にこの地を訪れた伊能忠敬が作成した日本地図には“東郷湖”と記されていたこと、そして、伊能忠敬が“湖”を使用した根拠はわからなかったということがとても気になったのです。事実関係を探ってみたい!好奇心が沸々と湧きがってきたのです。

 調べていると、『伊能忠敬測量日記より 忠敬、鳥取を測る』という本と出合いました。著者の田中精夫さんは、若き頃に伊能忠敬の業績を知り、敬愛の念を抱かれ、鳥取県を測量した伊能忠敬の足跡を克明に調査研究された方でした。

 著書によれば、伊能忠敬をリーダーとする測量隊が鳥取藩内を測量したのは、文化3年(1806年)と文化10年(1813年)の2回でした。第1回目は日本海沿岸部を主に測量し、第2回目に東郷湖の測量を行いました。

 測量は、閏十一月十七日から三日間行われました。測量日記には次のように記述されています。「十九日。朝晴午後より曇。又小雨。六ツ時後橋津村、本名湊村出立。我等は倉吉町逗留。伯州河内郡宮内村地内東郷湖宮印初め湖水測る。藤津村、松崎村松崎町中奥寺村引地村、野花村、長和田村十七日残東印に繋ぐ。東郷湖終る。一里一町八間。東郷湖一周十七八九日合、二里三十町」(注1)

 日記に「我等は倉吉町逗留」とあります。忠敬自身は倉吉に居て、町年寄から歓待を受けていました。幕府公認の測量隊が鳥取藩内にやって来たのですから、当然だったのでしょう。なので、実際の測量は部下の測量隊が行ったのです。

 日記には確かに“東郷湖”と記述されていました。しかし、池ではなく湖と記述した理由は書かれていません。忠敬たちにとっては測量が目的であり、恐らくは、測量隊が宿泊した橋津の豪商「天野屋」(中原家)から聞いた名称を記述したのかもしれません。

 調べていると新たな発見がありました。明治になり陸軍参謀局が忠敬の原図をもとに模写した『伊能中図 中国四国』がネットで公開されていました。見ると、確かに“東郷湖”と、湖中に記載されていました。

 やはり江戸時代には東郷湖と認識されていたのだろうか?でも、まだ何かしっくりこないな、と思っていた時でした。江戸時代に全国の大名たちが支配領域内の絵図を作成し、幕府へ提出することが求められた出来事を思い出したのです。

 幕命によると、慶長、正保、元禄、天保の4回、作成が命じられました。鳥取藩は、正保、元禄、天保の3回、それぞれ因幡国と伯耆国の国絵図を作成し提出しています。伯耆国絵図には、東郷池?東郷湖?どっちが記載されているのだろう?再び好奇心が湧き上がってきました。

 ブログを書き始めてから鳥取県立博物館と鳥取県立図書館に足繁く通うようになりました。歴史に関することを調べるとき、博物館と図書館が大いに役立つことがわかったからです。求めると必ず満足のいく回答を得ることができるのです。

 博物館には正保年間(1644年~1648年)に作成された国絵図が復元掲示されていました。何と、“東郷池”と朱記されていたのです。ということは、鳥取藩は“東郷湖”ではなく、“東郷池”と認識していたのです。

“池”の文字をはっきりと読み取ることができます(東郷の二文字は、くずし字で書かれています)

 元禄の国絵図と天保の国絵図はどのように記載されているのだろうか?意を決し、受付係の方にお願いし、学芸員さんに尋ねてみることにしました。学芸員さんに案内されて資料閲覧室に入室すると、保存用に写真撮影された国絵図を見せていただきました。元禄も天保も、やはり“東郷池”と記載されていました。

元禄の国絵図は劣化し、読み取ることが困難ですが、何とか池と読めます(元禄11年、1698年頃の試作図)

天保の国絵図(控え図)では、“東郷池”と明瞭に記載してあります(天保6年、1835年から4年かけて作成)

 忠敬測量隊が鳥取藩内で測量を行った文化年間以前、すでに鳥取藩が“東郷池”と認識していたならば、鳥取藩の上級藩士と接触があったはずなのに、なぜ忠敬は“東郷池”と記載しなかったのでしょうか。一体、何があったのでしょうか。謎はさらに深まるばかりです。

(注1)日記中に「伯州河内郡」と記載されていますが、正式な名称は「河村郡」なので、書き間違いかもしれません

*参考文献1.『伊能忠敬測量日記より 忠敬、鳥取

                            を測る』著者 田中精夫

2.国絵図はいずれも鳥取県立博物館所蔵です