農家民宿 梨楽庵ブログ

伯耆鍛冶を受け継ぐ人

梨楽庵

鍬をインテリアとして店内の装飾に使う発想に驚きました

ホームセンターの売り場ではこんな展示はできません

時計まで鉄を活用してつくるなんて、すごいです。シンプル、イズ、ベストです

倉吉の鍛冶を受け継ぐのは八島(やしま)農具さんです

「鍬」の品質が認められて、国から指定工場に認定されています

 大人気の『倉吉本』にも取り上げられています

   なぜか見ているだけでも全く飽きません

隣接する工場も見学させていただきました。初めての体験でした

出荷前の商品を見るのは初めてです。鍬がかわいく見えました

 倉吉の千歯扱きは、明治から大正時代にかけて、全国一の生産量を誇り隆盛を極めました。しかし、足踏み脱穀機が発明され、脱穀の効率性に劣る千歯扱きは急速に衰退していきました。鍛冶町を中心に鍛冶屋を営んでいた業者も次々と転業や廃業に追い込まれたのです。現在、鍛冶町に鍛冶屋さんは一軒もありません。

 20年ほど前までは、倉吉の鍛冶屋さんを受け継ぐ、「ひろせや」さんが一軒だけ営業を続けていましたが、今はお店を閉じておられます。倉吉の千歯扱きを調べているうちに、「伝統を受け継ぐ人が倉吉市内に一人ぐらいはおられるのではないか」と思い浮かんだのです。

 ネットで調べて見ると、倉吉市広栄町にありました。会社名は(株)八島農具興業さんです。明治30年(1897)に初代八島幸吉が倉吉稲扱千歯の製造を開始し、創業当時は鍛冶町で営業していました。

 八島農具さんの担当地域は、信州地方と飛騨地方、つまり現在の岐阜県北部と長野県でした。千歯扱きの販売と修理を主に受け持っていました。

 大正末期には千歯扱きの製造は取りやめましたが、大正14年(1925)に溶接機を導入し、農具の製造販売に注力し、鍬と鋏(桑切)の特許を取得しました。

 戦後となり、昭和23年(1948)には通産省と農林省の指定工場となり、除草機の特許も2件取得されています。4代目からお話を伺いましたが、最盛期には10万挺の鍬を製造し全国に販売していたそうです。

 昭和48年(1973年)に現在地に移転し、平成2年(1990)にはフィリピンのダバオに鍬等の製造工場を設立しています。平成10年(1998)にダバオの工場を閉鎖してからは、国内での製造販売に軸足を移しています。

 販売先は、鳥取県内だけでなく、北陸地方から中国地方まで、西日本の日本海側の地域に、主力製品の鍬を中心に各種の農具を出荷しています。

 令和4年(2022)に125周年を迎え、現在の5代目社長がホームページを開設し、新たな販売戦略を立ち上げておられます。令和5年(2023)にはIRON-Caféをオープンし、斬新なアイデアで新たな顧客の開拓と高度な伝統技術を生かした農具や調理器具の製造販売とメンテナンスの充実に取り組まれています。

 5代目社長の八島久普さんは、ホームページを通して経営理念を次のように熱く語っています。

 「大量生産で使い捨てが効率の良い時代もありました。しかし、現在は地球環境を次の世代につなげていくために、(中略)愛着をもって使っていただける道具を提供し、メンテナンスして使えるうちは修理させて頂く。(中略)山陰の片田舎の鍛冶屋にできることは限られているかもしれませんが、少しでもご利用者様の不便を便利に変えていくお手伝いをいたします」

 「不便を便利に変える」何と素敵な言葉ではないでしょうか。私は初めて出合った言葉です。社長さんは気さくな方で初対面の私の質問にも丁寧にお答えしていただきました。

 隣接した工場内も見学させていただき、4代目のお父様からも千歯扱きの創業時から現在までの会社経営の変遷について普段なら絶対に聞けないお話を伺うことができ、満足感一杯の取材となりました。

 帰宅して八島農具さんのことを奥さんに話すと、「私もお店に行ってみたい!」と大変興味をもったようでした。数日後に出かけて、奥さんは手に馴染む包丁を1本購入しました。夕食の準備で包丁を使った奥さん曰く、「切れ味抜群!」とのことでした。

 メンテナンスも対応していただけるとのことだったので、刃がかけて、錆びついてしまった包丁を2本、修理依頼をしました。午前9時頃に包丁をお店に持参したのですが、12時過ぎには修理完了のお電話をいただきました。スピード感のある対応に感服してしまいました。

 鉄穴(かんな)流しを調べ始めてから、巡り巡って辿り着いた地元の鍛冶屋さんとの新たなご縁を大切にしていきたいと思いました。“伯耆鍛冶”の誇りを胸に、八島農具さんが益々ご発展されることを願っています。

上の2本が修理後の包丁です。下の包丁は購入したものです