農家民宿 梨楽庵ブログ

東郷荘下地中分絵図って何ですか?②

梨楽庵

平成15年12月撮影航空写真(東郷荘絵図徹底解説ガイドより)

航空写真と絵図を見比べてください。東郷池周辺には鎌倉時代の絵図と変わらない景観が今も残っているのです

 前回のブログで紹介した絵図は、「伯耆国河村郡」にあった「東郷荘(とうごうのしょう)」という「荘園」の所有をめぐって争っていた地頭の東郷氏と領家の松尾神社が支配地域を明確にするために作成されたものです。

 絵図には境界を示すために、“朱線”が引かれています。そして、朱線の両脇には、鎌倉幕府の“執権(しっけん)”北条長時と“連署(れんしょ)”北条政村の花押(かおう)が書かれています。花押とは、図案化された署名のことです。執権は将軍を補佐する役目で、連署は執権を補佐する役目です。

執権北条長時(右)連署北条政村(左)の花押が書かれています

 朱線の両脇に花押が記されていることは、幕府が正式に地頭と領家の支配地域を明示したことを表しています。鎌倉の“問注所(もんちゅうじょ)”で土地を半分ずつに分け合うこと、すなわち“下地中分”することで地頭と領家の和解が成立したのです。

 当時は、地頭と領家の間で土地の所有をめぐる争いが起きた時は、幕府は当事者で解決することを求めたようです。おそらくは、領地をめぐる紛争が頻発したので、幕府が裁定を下す必要がないと判断したものは当事者に解決を委(ゆだ)ねたのではないでしょうか。

 それでは、東郷荘の紛争について幕府はどのような取り扱い方を考えたのでしょうか。私見ですが、幕府の裁判所である問注所で協議されたということは、地頭と領家の力関係を同等に捉えたのではないでしょうか。

 調べていると、東郷氏の一族は現在の三朝町内の地頭にも任命されていました。絵図に書かれている東郷荘の「地頭分」の地頭の個人名は特定できないようですが、東郷氏の一族であることは間違いないと言われています。

 三朝町内の地頭に任命された東郷信康(竹田地頭)と東郷信定(三朝地頭)の弟にあたる東郷宣行は、幕府の御家人として活躍し、貞永元年(1232)に幕府が定めた法律である「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」の作成に関わった人物だと言われています。つまり、当時の東郷氏一族は、幕府にとっても有力な御家人たちだったのです。

 一方、領家の松尾神社の取り扱い方です。承久の乱(1221年)以降、京都の貴族や寺社の勢力は衰えていきましたが、松尾神社は京都でも別格の立場の神社です。いい加減な取り扱いはできません。元をたどれば、東郷氏は領地を松尾神社に寄進し、松尾神社の保護下にあったわけですから、幕府も対応に苦慮したのではないでしょうか。

絵図中に描かれた「松尾社(松尾神社)」

松尾神社は湯梨浜町野花地区にあります

 結果的には下地中分絵図が作成され、鎌倉の問注所で審議され、幕府の実権を握っていた北条氏のトップ2の執権と連署が花押を記したことは、この紛争の解決は重要な案件だったに違いありません。

 わずか1枚の絵図にも関わらず、朱線の両脇に8ヶ所も花押が記されていることが執権と連署の苦悩の表われを示唆しているように感じられます。

 絵図には、裏面に「裏書」があり、下地中分のやり方について記載されています。絵図の南側(上側)に目をやると、中央に朱線が引かれ、東方が“地頭分”、西方が“領家分”と大きめの文字で書かれています。まずは「荘園を東西に分割すること」が大原則だったと考えられています。

 領家分には、松尾社、長智宮、土海宮、宮の名は記入されていませんが、「耳江」にも鳥居があるので神社があったと推定できます。地頭分には、桂尾宮、守山宮、志津宮、加那子の神社が描かれています。領家分には木谷寺が、地頭分には置福寺が描かれています。

 東京大学史料編纂所所長を歴任し、日本中世史の第一人者である黒田日出男氏は、中分の原則は“下地”だけではなく、神社、寺院、馬の頭数、領主の家、農民の家の数にも及んでいるのではないかと推論されています。

 確かに、上述のように領家分にも地頭分にも、それぞれ神社が4つと寺院が1つずつ描かれています。池の南側の朱線と花押が交わる辺りには、かすれて見えにくくなっていますが、両脇に領主の館が描かれているように見えます。

 このように絵図の南側(上側)の荘園の領域には、神社や寺院が集中し、領家や地頭の政務を執る役所もあったと推測されることから、この地域が東郷荘の政治や文化の中心地域だったと推測されています。

 境界の決め方は、道路のあるところはそこを境とし、道路のないところには朱線を引いた箇所に堀をつくり境としました。絵図の北側(下側)の現在の羽合平野にあたる場所に、“廣熊路”と“紫縄手”があります。

 廣熊路は西郷との境界を表しています。紫縄手の縄手とは、田の中の真っ直ぐな道を意味しています。驚くことに、現在も紫縄手と推定される農道が残っているのです。橋津川にかかる橋から北条河に引かれた朱線部分は堀が境だったようです。

紫縄手と推定されている農道です。周辺では米づくりがさかんです

 南側の境界は、湖岸にある大伝寺の裏付近から東郷池に向かって堀が通っていたようです。しかし、三朝方面は深い山が連なり、堀を通すことはできないので、絵図上に朱線を真っ直ぐに引き、「見通し」により判断したようです。

 平地と思われる辺りには、格子状に描かれた田が広がっています。池に近い所には掘っ立て柱で建てられた家々が描かれていて、集落がつくられていたように思われます。

 長和田(なごうた)の池沿いと長江(ながえ)の集落には、礎石つきで縁側のある大型の家屋が見られます。領主の館と推定されています。

 次に絵図の北側(下側)をご覧ください。東郷池から日本海に流れ出る川が橋津(はしづ)川です。絵図の西側にあり、西郷と北條郷の間を南から北に向かって流れ、河口付近で橋津川と合流している川が北條河(天神川)です。

 東郷池の西側にあり、橋津川と北條河に挟まれた“伯井田”の平地は格子状の田畑が広い範囲で描かれています。この地は現在の羽合平野にあたります。 伯井田の“伯”は万葉仮名では“ハハ”の字に用いられ、伯井田は“ハハイダ”と読めます。

 後に、“羽合田”“羽合郷”“羽合町”へとつながる“ハワイ”の地名が確認できる最も古い資料だと言われています。伯井田は広い土地なので、朱線を引いて分け合ったのです。

 橋津川の東側の山々は“馬野(うまの)”と記入されています。現在の馬ノ山にあたります。馬の飼育がされていた牧場も見通しによる境界として朱線が引かれ中分されています。

 馬は躍動感のある表現で描かれ、領家分に5頭、地頭分に5頭が配分されています。橋津川に沿った付近には、地頭分、領家分ともに集落が見られます。また、領主の館と思われる大型の建物も1つずつ描かれています。

 舟の交通路としての津(港)の確保は重要なので、橋津川の河口部の東岸は領家に、西岸は地頭に配分されています。しかしながら、中分とはいえ、大湊宮を所有した領家に有利な取り扱いがなされたように思われます。

 その理由は、地頭分となった「東小垣」と「西小垣」の地域は、北条河の洪水による被害を受けやすい土地だからです。さらには、西小垣の大部分は砂丘地で、高い砂山もあり、耕作が困難だったことが推測されます。

 西小垣の河の近くには田畑を示す格子状の表現が描かれていますが、東小垣側には全く描かれていません。東小垣側は耕作困難な砂丘地だった可能性があります。なお、砂山の上に描かれた朱色のものは“牓示(ぼうじ)”と呼ばれ、東郷荘と北條郷の境界として描かれたと考えられています。

 次は、東郷池に目を向けてください。池に二艘(そう)の小舟が描かれています。一人乗りの小舟には、笠をかぶった人物が描かれています。絵巻物などに描かれる漁民の姿と同じ表現方法なので、漁業を営んでいることを表現していると言われています。

 二人乗りの舟に乗っている人物は、烏帽子(えぼし)をかぶっていることから測量技術員だとする説があります。なお、荘園絵図の中に人物が描かれているのは、唯一この絵図だけだと言われています。

 以上で、下地中分絵図から読み取れる領家分と地頭分の領域の説明を終えます。しかし、すでにお気づきだと思いますが、絵図をよく見ると、領家分でも地頭分でもない領域が描かれています。それは、「一宮」に関する所領です。

 東郷池の東側中央部の山間に「一宮(いちのみや)」と表記されています。一宮は現在、湯梨浜町宮内(みやうち)にある「倭文(しどり)神社で、「伯耆国一宮」を意味しています。

 一宮とは、伯耆国で最も社格の高い神社のことです。倭文神社は“式内社(しきないしゃ)”でもあります。式内社とは、延長5年(927年)に編纂された『延喜式』の中の「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」に記載されている神社のことで、倭文神社は朝廷が認めた官社だったのです。

 絵図には、一宮領として「長江(ながえ)」「宇野」「那志多(なしだ)」が描かれています。那志多は現在の湯梨浜町宇谷地区です。馬野の馬2頭分は一宮に配分されています。

 一宮を東へ山越えをした場所に「笏賀(くつが)」の表記があります。笏賀は現在の湯梨浜町泊地区のことで、笏賀も一宮領だったと言われています。

 絵図では一宮の所領の範囲を明示する表記はされていません。しかし、別格中の別格である一宮の社領には領家も地頭も口出しはできなかったのではないでしょうか。

 絵図は、あくまで東郷荘内の紛争当事者である領家と地頭の支配地域を明示するために作成されたものでした。しかし、荘内に一宮の所領があるのは厳然たる事実なので、一宮領についても表記したのではないでしょうか。

 絵図について調べる前は、湯梨浜町内にあった鎌倉時代の荘園をめぐって領家と地頭の間で紛争があり、両者の支配地域を明確にするために絵図が作成され、境界線を引いて範囲を確認し合ったもの、程度に考えていました。

 しかし、町誌をはじめ詳しく調べていると、絵図を通して領家と地頭の意図を垣間見ることができ、絵図を作成する過程の両者のやり取りが目の前に浮かんでくるような感覚に陥りました。

 現代においても土地をめぐる争いは訴訟問題に発展します。国家レベルにおいては紛争にとどまらず、戦争へと拡大してしまいます。

 東郷荘においても下地中分絵図の作成で両者の紛争が完全決着したのではありません。時代が下るにつれて、もめ事の解決は話し合いや文書や絵図によってではなく、武力による解決へと変化していきます。

 室町時代になると、守護たちが武力を背景に勢力を強め、地頭や地方の有力な武士を家臣に取り込み、荘園を侵略していくようになったのです。

    次の史料は寛正2年(1461年)の東郷荘に関わる史料です。「左大臣兼右近衛大将源朝臣」とは、室町幕府第8代将軍足利義政のことです。当時、伯耆国守護は、有力な守護大名山名氏の一族、山名教之(のりゆき)でした。

 史料は、“足利義政御教書”と呼ばれるもので、松尾神社の社領である東郷荘を守護が侵略しているので、幕府に阻止してもらうために出された将軍の花押入りの文書です。

 しかし、この頃には、将軍の権力は弱体化し、守護大名たちの横暴を阻止できる力は失っていました。文書が出された6年後には、応仁の乱(1467年)が始まり、国内は内乱状態となっていくのです。

 やや長いブログになってしまいましたが、日本の歴史の中の、鎌倉時代の歴史事象を浮き彫りにできる絵図が『東郷荘下地中分絵図』だったのです。絵図に描かれた場所が湯梨浜町内だったことを、なぜか私はとても誇らしく感じています。

 次回、湯梨浜町にお越しの際には、ブログを参考に、鎌倉時代に思いを馳せながら、湯梨浜町内を訪ねて見られたらいかがでしょうか。 

「東郷荘下地中分絵図模写本」(写真)の実物大の史料が湯梨浜町羽合歴史民俗資料館2階に展示されています。是非、ご覧ください