伯耆国の自然災害
梨楽庵

穏やかに、ゆったりと流れる天神川下流部付近です
鳥取県の中部地区を流れる天神川の上流部では、たたら製鉄の原料となる砂鉄を採取するために、鉄穴(かんな)流しがさかんに行われていました。そして、鉄穴流しによって、膨大な量の土砂が天神川水系に流され、洪水によって下流域の田畑に被害をもたらしました。さらには、天神川河口付近への土砂の流出と堆積は、長瀬高浜遺跡が砂に埋没する一因となり、北条平野が形成される要因ともなりました。しかし、調べていると、洪水の原因が鉄穴流しだけにあるのではないことに気がついたのです。
新編倉吉市史を読んでいると、近世の倉吉の項目に「天災の記録」についての記述がありました。それによると、『鳥取藩史』の中の「洪水の章」に幕府に報告した因幡と伯耆の被害状況の報告の記述があります。鳥取藩が成立後の、寛永12年(1635年)8月の洪水から、幕末の慶応2年(1866年)8月に発生した洪水まで、17回の事例が記載されています。
新編倉吉市史では、伯耆国久米郡と河村郡の両郡と倉吉町の被害状況が特に書かれていました。
「天文の水」と呼ばれた洪水では、室町時代に山名氏の城下町だった「見日町(みるかちょう)」が洪水によって流出したことが伝えられています。『伯耆民談記』には「天文13年(1544年)の秋、連日風雨激しく、久米・河村二郡の満水が合一してあふれ、古川村は水道となって美累可(みるか)の浜に流出、この地に自然の大湊を形成した」と記述されています。大洪水による城下町「見日町」の流失によって、打吹山の麓に新たな城下町「倉吉」が築かれることになったのです。
延宝元年(1673年)の洪水では、石高にして240石余りの損失が生じました。享保6年(1721年)7月の洪水については、「米子にては流家5軒、崩家90軒、其外破損101軒…倉吉も水深き事、4,5尺。河筋所処土手切れ…」との記載があり、伯耆国に損害が多かったようです。
宝暦12年(1762年)7月と8月の大風雨の際には、因幡と伯耆の両国は洪水によって甚大な被害を受けました。特に、7月15日~16日の洪水では、河村郡と久米郡に大被害を与え、倉吉の新御蔵も流失しました。倉吉の町を囲っていた土手の損壊もひどく、防災時のために藏に備蓄されていた❝囲い籾(かこいもみ)❞が15000俵も流出したのです。
大洪水の記録を4例だけ示しましたが、江戸時代から明治にかけては、たびたび大洪水が起きています。重複するものもありますが、以下に列記します。延宝元年(1673年)元禄8年(1695年)元禄14年(1701年)元禄15年(1702年)享保6年(1721年)享保14年(1729年)宝暦12年(1762年)文政12年(1829年)明治26年(1893年)
なぜこんなにも洪水被害が度々発生したのだろうか?室町や江戸時代だったので堤防を築く技術が不十分だったからだろうか?突如として大いなる疑問が湧いてきたのです。しばらくの間、思いめぐらしていると、ある考えが浮かんできました。もしかしたら、久米郡、河村郡、そして倉吉町のある東伯耆の地形的な要因が洪水の原因になっているかもしれないぞ、とひらめいたのです。
早速、国土交通省が管轄している天神川水系についてネットで調べてみました。すると、水害は江戸時代だけのことではありませんでした。明治以降にも台風を主原因としてたびたび水害が発生していたのです。特に、1934年(昭和9年)の室戸台風による洪水では、小鴨川の堤防が多くの箇所で決壊し、氾濫した濁流によって、「一朝にして当時の小鴨村、倉吉町を石河原と化し、一面の泥海に変じた」と言い伝えられています。当時は橋も「木橋」が多く、濁流に流されやすかったのです。
国土交通省がまとめた資料には、天神川の現状と課題の項目に、次のような記述がありました。「天神川は、河床勾配が急で河川延長も短く、急峻な山地を控えていることから、降雨はすぐに河川に流れ込み、一気に下流に集まるため、急激な水位上昇となる出水になりやすく、氾濫や堤防の決壊等にともなって、過去、幾多の甚大な被害が発生してきました。
さらには、天神川水系の災害リスクの特徴として、「天神川の最大の支川、小鴨川合流点付近には、鳥取県中部の中心都市である倉吉市があり、鳥取県中部の社会、経済、文化の基盤を成しています。天神川は支川、小鴨川の合流点付近に倉吉市街地が位置しており、氾濫による被害が生じやすく、(中略)このため人命を守ることを最優先して、関係自治体との緊密な連携のもと的確な避難体制の構築を図ることが特に重要です。」と警鐘を鳴らしています。何と、想定最大規模の浸水は約7mと推定されています。

資料①「河川の河床勾配」国土交通省資料より
資料①を見てください。千代川は約52㎞、日野川は約77㎞の長さです。それと比べると、天神川の長さは約32㎞と短く、天神川本流だけでなく、小鴨川、国府川などの支川も短く、河床の勾配が急なのです。つまり、天神川水系の地形的な要因が洪水多発の原因だったのです。天神川の水害対策は、江戸時代の過去の問題ではなく、現在進行形で必要な令和の課題だったのです。

中国山地からいくつもの川が天神川と合流し日本海へと流れています「天神川防災図」(国土交通省資料より)
冒頭で、長瀬高浜遺跡の埋没や北条平野の形成に鉄穴流しが影響していることをお話しましたが、真実は、鉄穴流しによる人為的な要因と天神川水系の地形的な要因が相まって、長い年月の間に膨大な量の土砂が天神川の下流部へと押し流され、堆積していったのではないでしょうか。
「見日町(みるかちょう)」の流失についても触れましたが、実は、見日町は天神川と小鴨川の合流地点にあった城下町だったのです。河川による流通に適した場所だったので山名氏によって城下町が形成されていたのです。

天神川と小鴨(おがも)川の合流地点に見日(みるか)町がありました

合流地点から日本海方面(北)の写真です

写真右手の山が山名氏の居城「田内(たうち)城」があった場所です。洪水によって写真中央に見える「打吹(うつぶき)山」の麓へ城を移しました

天神川です。小鴨川との合流地点から中国山地方面(南)の写真です
過去を調べていると、過去が過去ではなく現在とつながっているんだなあ、と改めて感じています。私はどこかの団体に所属している研究者ではありませんので、誤った捉え方をしている点も多々あるかもしれませんが、寛容なお心で受け止めていただけると有難いです。引き続きブログでのお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
