農家民宿 梨楽庵ブログ

東郷荘下地中分絵図って何ですか?③

梨楽庵

   絵図に描かれた領家の松尾神社の鳥居

 前回のブログで紹介した絵図は、「伯耆国河村郡」にあった「東郷荘(とうごうのしょう)」という「荘園」の所有をめぐって争っていた地頭の東郷氏と領家の松尾神社が支配地域を明確にするために作成されたものです。

 絵図には境界を示すために、“朱線”が引かれています。そして、朱線の両脇には、鎌倉幕府の“執権(しっけん)”北条長時と“連署(れんしょ)”北条政村の花押(かおう)が書かれています。花押とは、図案化された署名のことです。執権は将軍を補佐する役目で、連署は執権を補佐する役目です。

    右が執権北条長時、左が連署北条政村の花押

 朱線の両脇に花押が記されていることは、幕府が正式に地頭と領家の支配地域を明示したことを表しています。鎌倉の“問注所(もんちゅうじょ)”で土地を半分ずつに分け合うこと、すなわち“下地中分”することで地頭と領家の和解が成立したのです。

 当時は、地頭と領家の間で土地の所有をめぐる争いが起きた時は、幕府は当事者で解決することを求めたようです。おそらくは、領地をめぐる紛争が頻発したので、幕府が裁定を下す必要がないと判断したものは当事者に解決を委(ゆだ)ねたのではないでしょうか。

 それでは、東郷荘の紛争について幕府はどのような取り扱い方を考えたのでしょうか。私見ですが、幕府の裁判所である問注所で協議されたということは、地頭と領家の力関係を同等に捉えたのではないでしょうか。

 調べていると、東郷氏の一族は現在の三朝町内の地頭にも任命されていました。絵図に書かれている東郷荘の「地頭分」の地頭の個人名は特定できないようですが、東郷氏の一族であることは間違いないと言われています。

 三朝町内の地頭に任命された東郷信康(竹田地頭)と東郷信定(三朝地頭)の弟にあたる東郷宣行は、幕府の御家人として活躍し、貞永元年(1232)に幕府が定めた法律、「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」の作成に関わった人物だと言われています。つまり、当時の東郷氏一族は、幕府内の有力な御家人たちだったのです。

 一方、領家の松尾神社の取り扱い方です。承久の乱(1221年)以降、京都の貴族や寺社の勢力は衰えていきましたが、松尾神社は京都でも別格の立場の神社です。いい加減な取り扱いはできません。元をたどれば、東郷氏は領地を松尾神社に寄進し、松尾神社の保護下にあったわけですから、幕府も対応に苦慮したのではないでしょうか。

   絵図中に描かれた「松尾社(松尾神社)」

松尾神社は湯梨浜町野花(のきょう)地区にあります

 結果的に、下地中分絵図は作成されました。鎌倉の問注所で審議され、幕府の実権を握っていた北条氏のトップ2の執権と連署が花押を記したことは、この紛争の解決は重要な案件だったに違いありません。

 わずか1枚の絵図にも関わらず、朱線の両脇に8ヶ所も花押が記されていることが執権と連署の苦悩の表われを示唆しているように感じられます。

 絵図には、裏面に「裏書」があり、下地中分のやり方について記載されています。絵図の南側(上側)に目をやると、中央に朱線が引かれ、東方が“地頭分”、西方が“領家分”と大きめの文字で書かれています。まずは「荘園を東西に分割すること」が大原則だったと考えられています。

 領家分には、松尾社、長智宮、土海宮、宮の名は記入されていませんが、「耳江」にも鳥居があるので神社があったと推定できます。地頭分には、桂尾宮、守山宮、志津宮、加那子の神社が描かれています。領家分には木谷寺が、地頭分には置福寺が描かれています。

 東京大学史料編纂所所長を歴任し、日本中世史の第一人者である黒田日出男氏は、中分の原則は“下地”だけではなく、神社、寺院、馬の頭数、領主の家、農民の家の数にも及んでいるのではないかと推論されています。

 確かに、上述のように領家分にも地頭分にも、それぞれ神社が4つと寺院が1つずつ描かれています。池の南側の朱線と花押が交わる辺りには、かすれて見えにくくなっていますが、両脇に領主の館が描かれているように見えます。

 このように絵図の南側(上側)の荘園の領域には、神社や寺院が集中し、領家や地頭の政務を執る役所もあったと推測されることから、この地域が東郷荘の政治や文化の中心地域だったと推測されています。

 境界の決め方は、道路のあるところはそこを境とし、道路のないところには朱線を引いた箇所に堀をつくり境としました。絵図の北側(下側)の現在の羽合平野にあたる場所に、“廣熊路”と“紫縄手”があります。

 廣熊路は西郷との境界を表しています。紫縄手の縄手とは、田の中の真っ直ぐな道を意味しています。驚くことに、現在も紫縄手と推定される農道が残っているのです。橋津川にかかる橋から北条河に引かれた朱線部分は堀が境だったようです。

 紫縄手と推定される農道です。米作りがさかんです

 南側の境界は、湖岸にある大伝寺の裏付近から東郷池に向かって堀が通っていたようです。しかし、三朝方面は深い山が連なり、堀を通すことはできないので、絵図上に朱線を真っ直ぐに引き、「見通し」により判断したようです。

 平地と思われる辺りには、格子状に描かれた田が広がっています。池に近い所には掘っ立て柱で建てられた家々が描かれていて、集落がつくられていたように思われます。長和田(なごうた)の池沿いと長江(ながえ)の集落には、礎石つきで縁側のある大型の家屋が見られます。領主の館と推定されています。

 (次号へ続きます)

*参考文献…『東郷町誌』『羽合町史 前編』『新修羽合町史』『保存版 東郷荘絵図 徹底解説ガイド』平成21年(2009年)湯梨浜町企画課