東郷荘下地中分絵図って何ですか?⑤
梨楽庵

湯梨浜町宮内(みやうち)にある「倭文(しどり)神社」
前号までのブログで、下地中分絵図から読み取れる領家分と地頭分の領域の説明をしました。しかし、すでにお気づきだと思いますが、絵図をよく見ると、領家分でも地頭分でもない領域が描かれています。それは、「一宮」に関する所領です。

東郷池の東側中央部の山間に「一宮(いちのみや)」と表記されています。一宮は現在、湯梨浜町宮内(みやうち)にある「倭文(しどり)神社で、「伯耆国一宮」を意味しています。
一宮とは、伯耆国で最も社格の高い神社のことです。倭文神社は“式内社(しきないしゃ)”でもあります。式内社とは、延長5年(927年)に編纂された『延喜式』の中の「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」に記載されている神社のことで、倭文神社は朝廷が認めた官社だったのです。

絵図には、一宮領として「長江(ながえ)」「宇野」「那志多(なしだ)」が描かれています。那志多は現在の湯梨浜町宇谷地区です。馬野の馬2頭分は一宮に配分されています。一宮を東へ山越えをした場所に「笏賀(くつが)」の表記があります。笏賀は現在の湯梨浜町泊地区のことで、笏賀も一宮領だったと言われています。
絵図では一宮の所領の範囲を明示する表記はされていません。しかし、別格中の別格である一宮の社領には領家も地頭も手出しはできなかったのではないでしょうか。絵図は、あくまで東郷荘内の紛争当事者である領家と地頭の支配地域を明示するために作成されたものでした。しかし、荘内に一宮の所領があるのは厳然たる事実なので、一宮領についても表記したのではないでしょうか。
絵図について調べる前は、湯梨浜町内にあった鎌倉時代の荘園をめぐって領家と地頭の間で紛争があり、両者の支配地域を明確にするために絵図が作成され、境界線を引いて範囲を確認し合ったもの、程度に考えていました。
しかし、町誌をはじめ詳しく調べていると、絵図を通して領家と地頭の意図を垣間見ることができ、絵図を作成する過程の両者のやり取りが目の前に浮かんでくるような感覚に陥りました。現代においても土地をめぐる争いは訴訟問題に発展します。国家レベルにおいては紛争にとどまらず、戦争へと拡大してしまいます。
東郷荘においても下地中分絵図の作成で両者の紛争が完全決着したのではありません。時代が下るにつれて、もめ事の解決は話し合いや文書や絵図によってではなく、武力による解決へと変化していきます。
室町時代になると、守護たちが武力を背景に勢力を強め、地頭や地方の有力な武士を家臣に取り込み、荘園を侵略していくようになったのです。
次の史料は寛正2年(1461年)の東郷荘に関わる史料です。「左大臣兼右近衛大将源朝臣」とは、室町幕府第8代将軍足利義政のことです。当時、伯耆国守護は、有力な守護大名山名氏の一族、山名教之(のりゆき)でした。



史料は、“足利義政御教書(みぎょうしょ)”と呼ばれるもので、松尾神社の社領である東郷荘を守護が侵略しているので、幕府に阻止してもらうために出された将軍の花押入りの文書です。
しかし、この頃には、将軍の権力は弱体化し、守護大名たちの横暴を阻止できる力は失っていました。文書が出された6年後には、応仁の乱(1467年)が始まり、国内は内乱状態となっていくのです。
やや長いブログになってしまいましたが、日本の歴史の中の、鎌倉時代の歴史事象を浮き彫りにできる絵図が『東郷荘下地中分絵図』だったのです。絵図に描かれた場所が湯梨浜町内だったことを、なぜか私はとても誇らしく感じています。
次回、湯梨浜町にお越しの際には、ブログを参考に、鎌倉時代に思いを馳せながら、湯梨浜町内を訪ねて見られたらいかがでしょうか。

「東郷荘下地中分絵図模写本」(写真)の実物大の史料が湯梨浜町羽合歴史民俗資料館2階に展示されています。是非、ご覧ください
*参考文献…『東郷町誌』『羽合町史 前編』『新修羽合町史』『保存版 東郷荘絵図 徹底解説ガイド』平成21年(2009年)湯梨浜町企画課
