因幡・伯耆の山城盛衰記①
梨楽庵

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」が人気を博しています。人気俳優のキャスティングが的確であり、ドラマ展開もスピーディーで、高齢者から若者まで幅広い年代に視聴されているようです。
戦国時代の信長、秀吉、家康に関しては、大河ドラマで何度も取り上げられているにも関わらず、三英傑が繰り返しドラマ化されるのは、3人の超個性的な人物像とその生き様が令和を生きる私たちに、今なお大きな影響力をもっているからに違いありません。
三英傑については、社会科の教科書でも必ず学習する歴史事項です。なので、日本で義務教育を受けた人なら、誰もが三英傑の名前は知っています。しかし、三英傑が生きた同時代に、全国各地では多くの武将たちが生死をかけて戦国の世を生き抜いていました。
今回のブログ、「因幡・伯耆の山城盛衰記」では、教科書に取り上げられないために学ぶことができなかった鳥取県の戦国時代の地方史を、先人の文献を参考にさせていただきながら、私の学びの報告を通して、皆様にも知っていただきたいと思います。
〈 山名氏・尼子氏・毛利氏の攻防戦 〉
戦国時代の中国地方は毛利氏の勢力下にあり、天下統一をめざす織田信長は羽柴秀吉を派遣し、毛利氏への攻撃を開始しました。その結果、二大勢力の間に置かれた伯耆国と因幡国では、二大勢力に味方する地元の武士達の間で激戦が繰り返されました。

特に、鳥取城と羽衣石城をめぐる攻防戦は織田氏と毛利氏の戦局を大きく左右する決戦となりました。ブログの山城盛衰記では、鳥取県が舞台となった織田方と毛利方の歴史に残る攻防戦を追いながら、戦国武将の悲哀に触れていきたいと思います。


最初に、南北朝から室町時代の因幡国と伯耆国(鳥取県)の歴史の大まかな流れをみてみます。この時代は、山名時氏(1303年~1371年)以降、山名一族が“守護”として支配していました。当時の守護は都の京都に住んでいて、因幡国・伯耆国の支配は“守護代”が代わりに行っていました。
守護代には、その国に住んでいる国人(こくじん)が任命されていました。国人とは、鎌倉時代の地頭の流れを引く、武士のことです。
応仁元年(1467)、いわゆる応仁の乱が始まりました。京都で始まった戦乱は全国に広がり、10年余り続く動乱の時代が始まったのです。因幡国と伯耆国も戦乱に巻き込まれることになりました。



伯耆国では南条氏が兵を挙げ、出雲国では、富田城(島根県安来市)が本拠地の尼子(あまご)氏が勢力を拡大し、伯耆国へ進出し、全域を支配するようになりました。

山名氏一族の長だった但馬国(兵庫県北部)の山名祐豊(すけとよ)は勢力を回復するために、因幡国へ進軍することとなりました。その結果、因幡国と伯耆国は尼子氏と山名氏の激戦の舞台となったのです。

弘治3年(1557)、山口県(周防国・長門国)の戦国大名の大内氏を滅ぼした広島県(安芸国)の毛利元就は、山陰地方へと勢力を拡大してきました。永禄9年(1566)、富田城主、尼子義久が降伏すると、元就は富田城を拠点にして山陰支配へと向かったのです。




因幡と伯耆については、西伯耆南部は毛利氏が直接支配し、西伯耆北部は杉原盛重(もりしげ)に任せ、東伯耆は羽衣石城主南条宗勝(むねかつ)に、因幡は武田高信(たかのぶ)に支配を任せました。

永禄11年(1568)、元就が大友氏との戦いのために九州に出陣しました。杉原や南条たちも筑前国(福岡県)へと派遣されました。すると、そのすきに、尼子勝久が伯耆で“尼子再興の兵”を挙げたのです。そのため、伯耆の国内は再び激しい戦場となったのです。
元就は、次男の吉川元春を山陰方面へ派遣し、勢力の回復をめざしました。元春は、南条氏らと手を結び、伯耆国内の尼子氏を排除しました。因幡においては、但馬(兵庫県北部)の山名祐豊(すけとよ)と同盟関係を結び、尼子氏と激戦を繰り返しました。その結果、天正4年(1576)には尼子氏は因幡と伯耆から勢力を失うことになりました。
(次号に続きます)
*参考文献…『鳥取県史ブックレット1 織田VS毛利―鳥取をめぐる攻防―』(鳥取県 2007年)『鳥取県史ブックレット4 尼子氏と戦国時代の鳥取』(鳥取県 2010年)『因伯の戦国城郭』(高橋正弘 1986年)『県史31 鳥取県の歴史』(山川出版 1997年)『山陰名城叢書 鳥取城』(中井均編 ハーベスト出版 2022年)『鳥取城のあゆみ』(鳥取市歴史博物館 2023年)『鳥取城』(山根幸恵 鳥取城刊行会 1966年)『東郷町誌』『羽合町史 前編』『新修羽合町史』『泊村誌』『鳥取県立博物館所蔵 鳥取城絵図集』(鳥取県立博物館資料刊行会 1998年)
