農家民宿 梨楽庵ブログ

因幡・伯耆の山城盛衰記②

梨楽庵

山城(やまじろ)は山の尾根や中腹の斜面に平坦な場所をつくり、堀や土塁(どるい)などで守りを固めた城です。鎌倉時代から戦国時代にかけて全国各地に造られました

      〈 毛利氏と織田氏の攻防戦 〉

 永禄11年(1568)、織田信長は足利義昭を室町幕府の将軍とし、京都へ上洛しました。当初は信長と元就は友好的な関係でしたが、元就の孫の輝元の代になると、将軍義昭と信長の関係が悪化し、義昭が輝元を頼るようになると、毛利氏と織田氏の間に対立が生じるようになったのです。

 天正元年(1573)、信長によって将軍義昭が京都を追放され(室町幕府が滅ぶ)、その後、義昭が毛利氏の領国である備後国(広島県福山市鞆町)に逃げ延びると、両者の対立は決定的となりました。

 天正5年(1577)、信長の命を受けて、中国地方攻略の担当となったのが羽柴秀吉です。秀吉は播磨国(兵庫県)へ進出し、姫路城を拠点として、但馬国(兵庫県北部)や播磨国(兵庫県南部)の諸城を攻撃しました。

 12月には播磨国の上月(こうづき)城を落城させた後は、尼子勝久、山中幸盛(通称、鹿之助)に城を任せ、さらに中国地方へと進軍をねらっていました。尼子勝久は“尼子氏再興”を願って、山中鹿之助と共に、秀吉の家臣となっていました。

 しかし、天正6年(1578)、毛利氏の播磨国への進軍が始まると、上月城は落城し、尼子勝久は自刃し、捕らえられた山中鹿之助も備中松山城(岡山県高梁市)の輝元のもとへ護送される途中に殺害されてしまったのです。その結果、尼子氏再興の夢をかなえることはできなくなったのです。

 上月城を落城させ、続いて三木城を攻撃していた秀吉は、天正8年(1580)に三木城を落城させ、播磨国を平定しました。そして、10年余りに及ぶ石山本願寺との戦乱を収め、信長が畿内一円を平定すると、秀吉は、再び姫路城を拠点に、備前国・但馬国方面へ進軍を開始したのです。

 但馬国は天正3年(1575)に毛利氏と山名祐豊が同盟関係を結んでいて、毛利氏の勢力圏の東端となっていました。しかし、但馬の国人の中には、秀吉方についているものも多く、但馬国は毛利氏と織田氏の勢力が拮抗する境目となっていたのです。

 このように、山陽方面で毛利軍と織田方の秀吉軍との激戦が繰り返される状況が続く中で、二大勢力の間に位置する伯耆国と因幡国の武士たちの間では、大きな動揺が生じ始めていたのです。

   (次号へ続きます)