因幡・伯耆の山城盛衰記③
梨楽庵

〈 信長の謀略と有力国人の動揺 〉
毛利軍と織田方の秀吉軍との激戦が続く中、二大勢力の間に位置する伯耆国と因幡国の武士たちがどちら側に味方するかは、戦況を大きく左右することになりました。信長は自軍に味方するように謀(はかりごと)をめぐらしました。
東伯耆の有力国人だった南条元続(もとつぐ)は、羽衣石城(湯梨浜町)を本拠としていました。室町時代には南条氏は山名氏の守護代で、応仁の乱以降の動乱の中で、毛利氏と手を結んで尼子氏を排除し、毛利氏から東伯耆(河村郡・久米郡・八橋郡)の支配を任され、毛利氏の山陰支配の一翼を担っていました。

天正3年(1575)、突如、南条宗勝(むねかつ)が急病をわずらい、病の床につきました。父の南条宗勝は、嫡男の元続と弟の小鴨元清(もときよ)に毛利家へ忠誠を誓うことを遺言しました。
ところが、父、宗勝の急死は、跡を継いだ元続の動揺の始まりとなったのです。元春に忠誠を誓ったものの、「このまま毛利につくべきか、それとも織田につくべきなのか」毛利氏と織田氏の対立の間に位置した中小の有力国人たちにとっては、戦国の世を生き抜ぬく上で、共通の悩みだったのです。
天正元年(1573)、信長は将軍足利義昭を京都から追放し、朝倉氏・浅井氏を滅ぼすと、天正2年(1574)には長嶋一向一揆を平定し、天正3年(1575)には長篠の戦いで武田氏を滅ぼし、天正4年(1576)年には安土城を築きました。まさに破竹の勢いです。いよいよ中国方面への進軍が想定されたのです。元続はいよいよ決断を迫られることになりました。
天正4年(1576)7月、元続の家臣、福山次郎左衛門の織田方への内通が発覚しました。しかし、福山次郎左衛門は元続の家臣、山田重直によって討ち取られました。
ところが、天正7年(1579)9月、元続軍が家臣、山田重直の館を攻撃する事件が起きたのです。元続と元清は吉川元春に忠誠を誓う「血判起請文」を提出しましたが、元春は南条氏に強い疑念を抱くようになったのです。南条元続が毛利氏への離反を決断したのは、この事件の頃だと推測されています。
宇喜多直家は備前国、岡山城を本拠とする戦国大名でした。毛利氏と手を結び勢力を拡大していました。天正3年(1575)、直家は播磨に出陣しましたが、上月城での秀吉との戦いに敗れ、その頃より、「病気を理由」に毛利方に非協力的になり始めました。
天正7年(1579)9月、南条元続とほぼ時を同じくして、直家は織田方へ寝返ったのです。直家が寝返った理由は、上月(こうづき)城の戦いで秀吉軍に敗北し、敗戦後の秀吉の処罰の仕方が直家の心に衝撃を与えたとも言われています。
上月城の戦いは凄惨を極める戦いでした。秀吉軍によって直家の軍兵619人が首をとられ、女性や子どもを含む城内の者、全てが皆殺しにされたと言われています。
東伯耆の南条氏と備前の宇喜多氏の間に位置する因幡国・美作国(岡山県北部)では、有力国人、草苅氏が勢力を広げていました。現在の岡山県津山市にある高山(こうやま)城を本拠としていました。
永禄6年(1563)頃、草苅景継(かげつぐ)は織田方に寝返りましたが、天正7年(1579)、毛利氏は景継の弟、重継(しげつぐ)を取り込み、兄の景継は切腹し、重継に家督を継がせることに成功したのです。草苅氏は毛利方に忠誠を誓いました。

信長は有力武将へはかりごとをめぐらしました

当初は、有力武将は“毛利方”でした

南条氏と宇喜多氏は織田方へ寝返りました

羽衣石城主、南条氏は戦局に大きな影響を与えることになります
この結果、宇喜多氏は西では備前の毛利氏と北では美作の草苅氏と激戦を繰り返すことになったのです。
(次号へ続きます)
