因幡・伯耆の山城盛衰記⑧
梨楽庵

羽衣石の集落の麓から羽衣石城を見上げました。山上には雪が残っています。
〈 羽衣石城の攻防戦① 〉
経家切腹、鳥取城の落城の悲報は、吉川軍へ直ちに伝えられました。茶臼山から進軍し、馬野山(湯梨浜町)に陣を構え、鳥取城救援の準備をしていた元春にも悲報が届くと、元春は、経家の死を悔やむとともに、羽衣石表で秀吉軍と一戦を交える覚悟であると、経家の父、経安宛に書状を送っています。
一方、秀吉は落城させた鳥取城は重臣の宮部継潤(けいじゅん)に与え、姫路城へ戻る準備をしていました。すると、元春軍との一戦を目前に控えた南条兄弟が秀吉へ加勢を求めてきたのです。秀吉は、羽衣石城に立てこもる南条元続を救援するために、26日には鹿野に入り、翌27日には羽衣石近辺に陣を構え、馬野山の吉川元春軍と対峙しました。
最新の研究によって、秀吉軍の陣構えの様子が明らかになりました。秀吉は羽衣石城を防御するために、羽衣石城の北東部に番城(ばんじろ)を築かせました。羽衣石城とは約450m離れており、元春軍の正面に向けて築かれました。
さらに、羽衣石城の南方部、城から約850m離れた山頂部には十万寺城を築きました。この城こそが秀吉の本陣であり、羽衣石城へ搬入する食料と弾薬の保管施設として築かれたと考えられています。
十万寺城と番城は羽衣石城を救援するための城でした。敵を攻撃するためではなく、救援するために築かれた陣城(じんじろ)は国内唯一だと言われています。なお、陣城とは、城攻めのときに臨時的に築かれた城のことです。

十万寺城跡からは羽衣石城を見下ろすことができます。さらには、馬野山に陣取った元春の本陣を見通すこともできるので、秀吉の本陣だった可能性が高いと言われています。
秀吉軍は数万、元春軍はわずか6千と伝えられています。秀吉は、経家の弔い合戦として士気の上がる元春軍と雪の季節を目前にして多くの犠牲を払うことを懸念し、主力軍の決戦を避けるように命じ、兵糧と弾薬を羽衣石城と岩倉城に搬入してからは、全軍が因幡方面へ引き上げを開始したのです。
元春も追撃をやめたため、両軍の全面衝突は避けられました。その後、秀吉は姫路城へ戻っていきました。そのため、秀吉軍が去った後、羽衣石城は再び孤立状態となったのです。11月下旬には元春軍との激戦が続き、羽衣石城を離れる城兵も次々と現れ始めました。
秀吉から兵糧と弾薬の支援はあったものの、秀吉が元春軍と戦わずして去ったため、羽衣石城の城兵の心は激しく動揺し、意気消沈したに違いありません。しかし、幸いにもこの冬は大雪に見舞われ、元春軍も攻め切ることはできませんでした。羽衣石城が持ちこたえることができたのは、大雪のおかげだったのです。

おそらくはこのような状態だったのではないでしょうか。

激戦地の長和田からは羽衣石城を遠望することができます。


年が明けて、天正10年(1582)春3月、毛利方と織田方の戦況を大きく変える戦いが山陽方面を舞台に始まったのです。
(次号へ続きます)
