農家民宿 梨楽庵ブログ

伯耆の山城盛衰記⑦

梨楽庵

  江戸時代初期の絵図に描かれた天守のようすです。

     〈 鳥取城の落城 

 秀吉軍によって鳥取城は厳重に包囲され、城内では兵糧も底をつき、毎日のように餓死者がでて、人々は極度の飢えに苦しんでいました。日本海からの海上輸送による援軍や兵糧も途絶え、鳥取城の落城はもはや時間の問題となっていました。

 籠城戦が始まって3カ月余りが経過した10月下旬、ついに経家に決断の時が来ました。経家は降伏を決意し、自身の切腹と引き換えに城内にいる者たちを助けてほしい、と秀吉に申し出たのです。

 秀吉は、山名豊国を裏切った5人の重臣の切腹を命じましたが、経家には切腹を思い止まるように命じました。しかし、経家の決意は固く、秀吉も承諾したのです。

 10月24日、経家は切腹前日に、跡取りの亀寿丸と父の経安や家臣に宛てて5通の書状をしたためました。父宛の書状には「日本二ツ之御弓矢境である鳥取城において、自分一人の切腹により、多数の城兵の命を救うことは吉川一門の名誉である」と書き記しました。

 翌25日早朝、経家は自分の首に添える秀吉宛の書状と、経安と亀寿丸宛の最後の書状をしたためました。「とっとりの事、よるひる二ひやく日こらへ候、ひやう二つきはて候まま、我ら一人御ようにたち、おのおのをたすけ申、一もんのなをあけ候、そのしあハせものかたり御ききあるへく候、かしこ

 

  てん正九

    十月廿五日    つね家  判

  あちやこ

  かめしゆ   申給へ

  かめ五

  とく五

 10月25日寅刻(午前4時ごろ)、行水を済ませた経家は、浅黄の袷(あわせ)を着て、介錯用の両刀を携えて、城内の広間に進み、上座に具足と唐櫃(からひつ)を置いて座り、家臣一同と別れの杯を酌み交わしました。

 その後、高らかに二、三度空笑いし、座中に目を向け、大声で、「内々稽古しておらぬので無調法であろう」と言って自刃をとげたと言われています。享年35歳でした。

 吉川経家の銅像が建てられている場所は、兵糧攻めが終了し、解放された城兵たちに秀吉が粥(かゆ)をふるまった場所だと伝えられています。

(次号へ続きます)