農家民宿 梨楽庵ブログ

因幡・伯耆の山城盛衰記⑩

梨楽庵

江戸時代初期の鳥取城絵図(岡山大学付属図書館所蔵)

    〈 鳥取城落城後の領地 

 鳥取城が落城し、因幡国は戦功のあった秀吉軍の武将たちに分け与えられました。鳥取城は宮部継潤(けいじゅん)が城主となり、鹿野城主には亀井玆矩(これのり)が配置されました。他の諸城にも有力家臣が配置されました。

 天正4年(1576)に始まった毛利方と織田方の攻防戦は、信長の後を受け継いだ秀吉の勝利で終了しました。その後、数回の領土交渉を経て、天正19年(1591)、因幡国と東伯耆三郡は秀吉の領土に、西伯耆三郡と八橋は毛利方の吉川氏の領土と画定しました。

     〈 羽衣石城の滅亡 〉

 慶長3年(1598)、秀吉の死によって朝鮮での戦争(慶長の役)は終わり、全軍が日本に引き揚げました。慶長5年(1600)9月、関ヶ原の戦いが目前に迫りました。石田三成につくべきか、徳川家康につくべきか、武将たちは一門の命運がかかる困難な決断を下さなければならない状況となりました。

 天正19年(1591)、父、元続が病死し、嫡男の元忠が家督を受け継ぎ、羽衣石城主となっていました。元忠は三成方から催促を受け、重臣を集めて協議を行いました。広瀬隼人、津村長門、山田越中らは家康の優勢を説き、家康側につくことを主張しました。ところが、山田佐助は次のように進言したのです。

  「秀吉から受けた恩義を考え、西国の大名たちがほぼ皆、石田方に味方するのに、南条家だけが徳川方につけば、隣国の武士たちが直ちに攻めてくるにちがいない。その時、東国にいる家康の救援は期待できず、落城となるであろう。だからこそ、石田方につくべきである」

 進言を受けて、元忠は石田方へ味方することを決断しました。9月15日、関ヶ原の戦いで石田三成は敗北しました。その結果、元忠は家康から領地を没収されました。羽衣石城をはじめ、南条氏ゆかりの神社、仏閣などは全て焼き払われたと言われています。南条氏が城主となって以降、10代およそ250年続いた羽衣石城は、ついに滅亡したのです。

  〈 関ヶ原の戦い以後の領地の変遷 〉

 西軍の石田方に味方した宮部氏、垣屋氏、木下氏、南条氏は領地を没収され、因幡国には、池田氏、山崎氏、亀井氏が、伯耆国は中村氏に与えられました。その後も、因幡・伯耆は、さまざまな武将に分割統治されました。

因幡の武将の中で唯一人、東軍の家康側に味方した亀井玆矩は、引き続き鹿野城を任されました。鳥取城には宮部氏に代わって、池田長吉が城主となって入城しました。

元和3年(1617)、大幅な領地替えが行われました

 慶長20年(1615)、大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶと、元和3年(1617)、姫路城主、池田光政が鳥取城主に移り、因幡国と伯耆国は大山寺領を除き、鳥取藩池田家の領地となり、江戸時代の終了まで続くことになるのです。

     〈 羽衣石城の落城と浪人踊り 〉  

 鎌倉時代に新しい仏教の宗派が生まれました。その一つ、一遍上人が開いた時宗では、僧は寺に閉じこもらずに、布教のために全国を歩いて回り、踊り念仏を行って死者の霊を鎮めるとともに、娯楽の少ない民衆に踊りを教えていました。

 山陰地方の守護職を任された山名氏は熱心な時宗の信者であり、支援者でした。おそらくは東郷の地でも時宗の信者が多くいて、踊り念仏がさかんだったと思われます。

 この踊り念仏が天正年間(1573年~1591年)の戦乱で亡くなった人々を供養する“盆踊り”と結びついて、現在の“浪人踊り”として受け継がれてきたと思われます。浪人踊りは旧東郷町松崎3区に継承されていたもので、400年の伝統と格調高い民俗芸能です。

 羽衣石城主、南条氏は10代250年にわたり東伯耆の覇者として君臨しました。しかし、戦国時代となり、出雲の尼子氏や安芸の毛利氏とたびたび激しい戦いを行いました。特に、天正年間の毛利氏の吉川軍との戦いはすさまじく、両軍の死者は数知れず、流血で東郷池が赤く染まったと言われています。

 羽衣石城は落城し、生き残った者は各地に逃げのびました。その後、“盂蘭盆(うらぼん)…祖先や亡くなった人の霊を家に迎えて祀る行事”が近づくと、どこからともなく浪人姿で集まり、亡き友を偲びながら踊ったのが始まりと伝えられています。

       『湯梨浜町の誇り 百選』より

 現在は落城した7月20日に近い日曜日に東郷湖畔で開催される夏祭りの水郷祭で披露されています。浪人踊りは、昭和37年に鳥取県無形民俗文化財に指定されています。

 今回のブログ、「因幡・伯耆の山城盛衰記①~⑩」では、教科書に取り上げられないために学ぶことができなかった鳥取県の戦国時代の地方史について、先人の文献を参考にさせていただいて、私の学びの報告をしました。

 現代社会においては、“寝返り”“裏切り”“調略”は悪い行いだと考えられています。しかし、もしも自分が戦国の世に武将として生きていて、自分の判断ミスで一族を滅亡させてしまうかもしれない状況に直面したら、どんな決断を下しただろうか、と悩んでしまいます。

 歴史を学んだ私たちは、あの武将はああすればよかったのに、と勝手な意見を述べがちですが、日々が現在進行形で戦時を生きている武将たちにとっては、全くもって失礼千万な発言です。

 有難いことに、今の日本社会は戦国時代ではありませんが、日々直面する小さな出来事に対して、どのように対処すべきかは、戦国の世も現代も共通する点があるように感じました。

 ブログを作成しながら、先人から学ぶことで新たな発見がありました。今後も現地に出かけて、「因幡・伯耆の山城盛衰記」をより分かりやすいものにしていきたいと考えています。

*参考文献…『鳥取県史ブックレット1 織田VS毛利―鳥取をめぐる攻防―』(鳥取県 2007年)『鳥取県史ブックレット4 尼子氏と戦国時代の鳥取』(鳥取県 2010年)『因伯の戦国城郭』(高橋正弘 1986年)『県史31 鳥取県の歴史』(山川出版 1997年)『山陰名城叢書 鳥取城』(中井均編 ハーベスト出版 2022年)『鳥取城のあゆみ』(鳥取市歴史博物館 2023年)『鳥取城』(山根幸恵 鳥取城刊行会 1966年)『東郷町誌』『羽合町史 前編』『新修羽合町史』『泊村誌』『鳥取県立博物館所蔵 鳥取城絵図集』(鳥取県立博物館資料刊行会 1998年)『東伯耆の雄 南条氏 羽衣石城攻防戦誌』(河本英明)『湯梨浜町の誇り 百選』(湯梨浜町)