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日本百名城 鳥取城跡①

梨楽庵

 国指定史跡、鳥取城跡は鳥取市のシンボル久松山(きゅうしょうざん)の山麓にあり、戦国時代の山城(やまじろ)が起源の城跡です。防御に優れ、山頂からの眺望の素晴らしさから、「日本(ひのもと)にかくれなき名山」と言われ、織田信長も「堅固な名城」と讃えています。

    〈 戦国時代の鳥取城 〉

 鳥取城は、16世紀の中頃、因幡国と但馬国の守護大名山名一族の争いの中で誕生しました。因幡国守護、山名氏の居城は、湖山池東岸の“天神山城(てんじんやまじろ)”にありました。そして、鳥取城は但馬国守護、山名氏から本拠地の天神山城を守るための「出城(でじろ)」としての役目を担っていました。

 天神山城の築城の経緯について詳細は明らかではありませんが、江戸時代中期に編纂された『因幡志(いなばし)』には文正元年(1466)、山名勝豊(かつとよ)によって築かれたと記載されています。

 天正元年(1573)、山名豊国(やまなとよくに)は本拠地を天神山城から久松山麓の鳥取城へ移しました。その理由は、天神山城は低山に築かれたため防御に弱点があり、さらには湖山池の環境の変化が関係していると言われています。

    天神山城と鳥取城の位置を確認してください。

 これ以降、鳥取城は因幡国(鳥取県の東側半分)の拠点となったのです。その後、山名氏は中国地方の大大名、毛利氏の家臣となり、天下統一をめざしていた織田信長の家臣、羽柴秀吉軍との間で壮絶な戦いが繰り広げられたのです。

    〈 鳥取城の兵糧攻め 〉

 天下統一をめざす織田信長は、1580年(天正8年)と1581年(天正9年)の2度にわたり、羽柴秀吉を総大将として大軍を派遣し、毛利方についた鳥取城を攻撃したのです。2度目の城攻めのとき、秀吉は圧倒的な兵力で鳥取城を包囲し、一切の補給路を断つ作戦、いわゆる“兵糧攻め”を行ったのです。

 毛利方の援軍からの兵糧も断たれ、城内の兵糧も底をつき、城内は悲惨な状況だったと伝えられています。追い詰められた城主、吉川経家は、ついに決断します。城内に残された家臣や城に避難していた民衆の命と引き換えに自らは切腹することを秀吉に申し出たのです。その結果、鳥取城は秀吉軍に明け渡されたのでした。

 なお、毛利氏と織田氏の攻防戦については、因幡・伯耆の山城盛衰記①~⑩で紹介していますので、ご覧ください。

    〈 安土桃山時代の鳥取城 〉

 兵糧攻めの後、鳥取城主となったのは、秀吉の家臣、宮部継潤(みやべけいじゅん)でした。宮部は石垣や天守を築き、城の姿を一新したと言われています。しかし、1600年(慶長5年)に起きた「関ヶ原の戦い」で、息子の宮部長房(みやべながふさ)が石田三成の西軍側につき、東軍側の鹿野城主、亀井茲矩(かめいこれのり)らの激しい攻撃を受け、城を明け渡すこととなりました。

*参考資料…『特別展 鳥取藩32万石』(鳥取県立博物館)『県史31 鳥取県の歴史』(山川出版社)『国指定史跡 日本百名城 鳥取城跡』(鳥取市教育委員会事務局文化財課)『鳥取県謎解き散歩』(新人物文庫)