日本百名城 鳥取城跡②
梨楽庵

元和5年(1619) 因幡国鳥取絵図(岡山大学付属図書館所蔵)
関ヶ原の戦いの後には、姫路城を築いた池田輝政(てるまさ)の弟、池田長吉(ながよし)が鳥取城主になりました。つまり、鳥取城と姫路城は池田氏の兄弟が大名となり、西国の豊臣家と関係のある大名の監視役となったのです。

慶長6年(1601)~慶長18年(1613)

慶長18年(1613)~元和2年(1616)
1615年(元和元年)、「大阪夏の陣」で豊臣家が滅ぶと、池田家は転機を迎えます。1616年(元和2年)、姫路城主の池田利隆(としたか)が亡くなり、息子の光政(みつまさ)が数え年8歳で家督を継ぐことになったのです。

元和2年(1616)光政が8歳で家督を継ぐ
しかし、翌年1617年(元和3年)、幕府は「播磨国は中国地方の重要な場所であり、幼い領主では治められない」という理由で、姫路城主の池田光政(みつまさ)を因幡国と伯耆国2ヶ国、32万石の領主として、鳥取へ配置換えしたのです。このときから、現在の鳥取県の県域とほぼ同じ領域の“鳥取藩”が誕生したのです。

元和3年(1617)幼少のため光政は姫路城から鳥取城へ国替え
池田光政が入城するまでの鳥取城は、5~6万石規模の大名の居城でした。光政は、久松山山麓を32万石の城下に相応しい場所にするために大規模な改修工事を行ったのです。その結果、現在の鳥取市街地の原型が光政の時代に形づくられたのです。
ところが、1632年(寛永9年)、岡山城主の池田忠雄(ただお)が亡くなり、わずか3歳の光仲(みつなか)が家督を継ぐことになりました。すると、幕府は「幼少では政務は困難」との判断を下し、いとこ関係にある光仲と、21歳年上の光政の国替えを命じたのです。

寛永9年(1632)光仲は岡山城から鳥取城へ、光政は鳥取城から岡山城へ国替え
“国替え”は藩主だけが入れ替わるのではありません。一門の家臣団やその家族、菩提寺などの寺院、問屋などの町人の一部も藩主と共に移動したのです。光仲と光政の家臣団はほぼ同規模でした。それぞれ岡山から鳥取へ、鳥取から岡山へおよそ1万人以上の人々が大移動して入れ替わったのです。

在位期間 寛永9年(1632)
~貞享2年(1685) 54年間
その結果、鳥取城は池田光仲を初代藩主とし、江戸時代の終わりまでの間、「鳥取池田家12代」の居城となったのです。

〈 追記 〉
*参考資料…『特別展 鳥取藩32万石』(鳥取県立博物館)『県史31 鳥取県の歴史』(山川出版社)『国指定史跡 日本百名城 鳥取城跡』(鳥取市教育委員会事務局文化財課)『鳥取県謎解き散歩』(新人物文庫)『鳥取城のあゆみ』(鳥取市歴史博物館)『鳥取のお殿さまー天下人と歩んだ池田家―』(鳥取市歴史博物館)
