鳥取城の復元整備事業②
梨楽庵

鳥取市のシンボル「久松山(きゅうしょうざん)」の山麓には、江戸時代には鳥取城がありました。
世界中で猛威を振るったコロナ感染症が収束し、円安ドル高の経済状況の中で、世界中から日本を観光目的にやってくる訪日客が激増しています。また、日本人の国内旅行も活発になっています。
近年の社会情勢では、東京一極集中を是正する対策の一つとして、地方創生が叫ばれ、観光産業が注目を浴びています。しかし、これまでのような首都圏や大都市や有名な観光地への観光客誘客ではなく、中小の地方都市へと観光客を呼び込む新たな観光の取り組みです。
全国の地方自治体では観光産業と連携し、地域の魅力の再発見や掘り起こしに取り組み、移住政策にも力を入れ、地域の活性化対策に懸命です。このような地方への観光客誘客の中で注目を浴びているのが、「お城ブーム」に後押しされた観光開発です。
新たな観光開発に触れる前に、廃城令以後の鳥取城の変遷の様子を紹介します。前述のように廃城令以後は、陸軍の施設として建物の多くは再利用されましたが、国内の治安が安定し、陸軍の撤退が決定すると、1879年(明治12年)には、鳥取城のシンボルであった“二の丸三階櫓”を含め、建物のほぼ全てが解体撤去されました。

山頂には2層の天守がありましたが、元禄5年(1692)、落雷によって焼失しました。その後、再建はされませんでした。「鳥取城破損御修覆願図」(天和3年、1683)」(鳥取県立博物館所蔵)
その後、城跡は“三の丸”や“籾蔵(もみぐら)跡”が学校用地として転用され、“扇御殿(おうぎごてん)”には「仁風閣」が建設されました。大正時代になると、旧藩主の鳥取池田家によって「久松公園」が整備され、鳥取市民の憩いの場所となっていました。
ところが、1943年(昭和18年)9月10日、震度6の鳥取大地震が発生し、市街地が広範囲に被災し、人的被害も大規模でした。鳥取城跡も石垣が崩落するなど、大きな被害を受けました。旧藩主の鳥取池田家は、震災復興に向けて立ち向かう鳥取市民を勇気づけるために、震災の翌年、鳥取城跡を鳥取市に寄贈したのです。
1957年(昭和32年)、鳥取城跡は国の指定史跡に選定されました。これを契機に、鳥取市は石垣の修理を中心に城跡の修理保存と活用に取り組んできています。江戸時代には32万石の大藩であった鳥取城の姿を後世に伝えるために、2005年(平成17年)に鳥取城の復元整備基本計画を策定しました。整備計画には、二の丸三階櫓の復元も検討されています。
第一段階として、城の正面玄関にあたる“大手登城路”の復元整備が取り組まれてきました。2018年(平成30年)には、城内へ通じる“擬宝珠(ぎぼし)橋” が完成し、121年ぶりによみがえりました。橋長約37m(幅6m)の城郭復元木造橋は、文化庁が認めた日本一の長さを誇ります。

橋の長さは約37m、幅6m、城郭復元木造橋では日本一の長さです。

「擬宝珠(ぎぼし)」は、伝統的な建築物の装飾の一つです。神社や寺院、橋などの手すりの柱の上に取り付けられています。
2021年(令和3年)には、擬宝珠橋を渡り終えて登城する際、城の大手門にあたる「中ノ御門“表門”(なかのごもんおもてもん)」が完成しました。そして、昨年(令和7年)3月には、「中ノ御門“渡櫓門”(なかのごもんわたりやぐらもん)」の復元が完成しました。

擬宝珠橋を渡り終えると、中ノ御門表門(なかのごもんおもてもん)が迎えてくれます。

中ノ御門表門の反対側からの景観です。
(次号に続きます)
