農家民宿 梨楽庵ブログ

久松山ってどんな山?④

風景

山頂からは若桜街道、智頭街道、鹿野街道もくっきりと見えます

    鳥取砂丘の馬の背も右手に見えます

 久松山に砦が築かれたのは天文14年(1545)、因幡国守護、山名誠通(のぶみち)が湖山池の東岸にあった“天神山城”の出城として山頂部に築城したのが始まりだと言われています。その当時、山名誠通は隣国の但馬国(兵庫県北部)守護の山名祐豊(すけとよ)と同族同士で争っていました。

 天正元年(1573)、但馬国山名氏の系統に連なる因幡守護、山名豊国が本拠地を天神山城から久松山に移し、山城の鳥取城が形作られていきました。豊国が天神山城から移築した天守閣は三層でしたが、関ヶ原の合戦後に城主となった池田長吉が二層に改修したと言われています。

正保元年(1644)因幡国鳥取城廻絵図部分拡大(東京大学総合図書館蔵)

 戦国の世の動乱の中で城主が入れ替わりながらも、ここ久松山の山頂に登ってきた武将ならば、眼下に広がる因幡の国の絶景に感嘆の声を上げながらも、「目の前に広がる因幡の国を、わしの手でつかみ取りたい!」と必ずや心の中で念じたことでしょう。

 久松山に登頂して初めて実感したことがあります。戦国時代の城は防御に優れた地形を利用した山城(注1)です。なので、城主となった武将たちは、通常の居住空間は山麓部に構えながらも、山頂の本丸から見える領域が自分の支配地だと感覚的に捉えていたのではないかということです。

 湖山池の畔の天神山城からは因幡の国全域を見渡すことはできません。しかし、久松山からは中国山地の山並みから鷲峰山(じゅうぼうざん)、大海原の日本海から鳥取砂丘まで、因幡国の広い範囲を見渡すことができるのです。

 これだけ広範囲な領域を見渡すことができる山城は、鳥取城以外には当時の日本にはなかったのかもしれません。秀吉軍と対峙した毛利方の吉川経家が久松山を「日本(ひのもと)にかくれなき名山」と評したと言われています。久松山が名山だということは当時の戦国武将たちの間でも広く知れ渡っていて、初めて久松山の山頂に登った時、経家自身が感じた言葉だったのかもしれません。

 元和3年(1617)、池田光政が城主となり、鳥取城が鳥取藩32万石の居城となります。おそらくは光政も久松山に登ったことでしょう。天守閣から眼下を眺め、大山を遠望すれば、「おお!あの山の所までがわが領国なんだなあ…。めっちゃスゲエー!」と叫んだかもしれませんね。

 麓の二ノ丸跡からも大山の山頂部の姿を見ることはできますが、山頂に登らないと戦国武将の思いに迫ることはできません。まだ、登山をされていない方は是非ともトライしてみてください。

  中央が久松山、右手が本陣山(山頂部が太閤ケ平)

(注1)鳥取県には因幡国に300,伯耆国に200,合計500余りの城砦(じょうさい)が伝わっていると言われています。(参考…『因伯の戦国城郭』高橋正弘著(1986年)

〈 追記 〉

 令和8年5月13日付の日本海新聞に面白い記事が掲載されていました。鳥取城跡などの観光ガイドを務めている有志3名が久松山山頂までの石段の数を調査されました。

 通常なら40分から50分で登頂できる中坂道を約3時間かけて調査した結果、1087段あったそうです。今後は“公認段数”を認定してもらえるように、計測した段数と記録を鳥取市に報告されるそうです。

 私は30数年前に金比羅さんへ参拝に訪れたことがあります。香川県の金毘羅さんの参道の石段は、傾斜が急で段数が多いことで有名です。表参道から御本宮までが785段、さらに奥社までは1,368段あります。

 通常、多くの観光客は御本宮の785段まで登ると折り返します。私も785段で折り返したように記憶しています。金毘羅さんの石段数と比較してみると、今回の調査結果が久松山への関心を高めること間違いありません。有志3名の皆様、ありがとうございます。