農家民宿 梨楽庵ブログ

羽衣石城が国の史跡に指定①

梨楽庵

羽衣石山(標高372m)の山頂に築かれた羽衣石城

 令和7年12月19日に開かれた国の文化審議会において、「羽衣城跡 附(つけたり)十万寺城跡 番城(ばんじろ)城跡」が国の史跡に指定されました。文化審議会が文部科学大臣に答申した指定理由は次のとおりです。

  「戦国期伯耆国の国人領主・南条氏の拠点で、天正年間に繰り広げられた毛利氏・織田(羽柴)氏の攻防戦の最前線にあった山城跡。4つの独立した曲輪群で構成され、その南北に十万寺城・番城城の出城が展開する。戦国期における山陰地方の政治状況の変化を知る上で重要」

  「戦国期における山陰地方の政治状況の変化」と言われても、鳥取県の歴史に興味関心のある方でないと理解困難だと思います。なので、今回のブログでは私の学びを通して政治状況の変化をお伝えします。

 天正9年(1581)10月下旬、羽柴秀吉軍によって鳥取城は厳重に包囲され、城内では兵糧も底をつき、毎日のように餓死者がでて、人々は極度の飢えに苦しんでいました。日本海からの海上輸送による援軍や兵糧も途絶え、鳥取城の落城はもはや時間の問題となっていました。

 城主吉川経家は降伏を決意し、自身の切腹と引き換えに城内にいる家臣らを助けてほしいと秀吉に申し出ました。秀吉は経家の切腹は思い止まるように命じましたが、経家の決意は固く、最終的には秀吉も承諾しました。

 吉川経家の切腹と鳥取城落城の悲報は、現在の湯梨浜町へ進軍し、羽衣石城を本拠とする南条元続軍と激戦を展開していた吉川元春軍へ直ちに伝えられました。

 この時、元春は現在の北栄町の茶臼山から軍を移動させ、湯梨浜町の馬野山に陣を構え、鳥取城救援の準備をしていました。悲報が届くと、元春は経家の死を悔やむとともに、羽衣石表で秀吉軍と一戦を交える覚悟であると、経家の父、経安宛に書状を送っています。

 一方、秀吉は落城させた鳥取城は重臣の宮部継潤(けいじゅん)に与え、姫路城へ戻る準備をしていました。すると、元春軍との一戦を目前に控えた南条元続とその弟の岩倉城主、小鴨元清が秀吉へ加勢を求めてきたのです。

 天正9年(1581)10月25日、鳥取城を落城させた秀吉は、羽衣石城(標高372m)に立てこもる南条元続を救援するために、翌26日には鹿野に入り、27日には羽衣石近辺に陣を構え、馬野山の吉川元春軍と対峙しました。

 最新の研究によって、秀吉軍の陣構えの様子が明らかになりました。秀吉は羽衣石城の北東部に番城(ばんじろ)を築かせました。番城の番とは、「番をする」という言葉がありますが、「見張りをする、監視する」という意味です。

 番城の標高は413m、羽衣石城とは約450m離れており、馬野山に布陣した元春軍を見下ろす位置に羽衣石城を防御するための出城として築かれました。

(注1)令和8年2月17日、文部科学省より正式に国の史跡に指定されました。(「広報 ゆりはま」P2より)

  ( 次号へ続きます )