難攻不落の羽衣石城③
梨楽庵

羽衣石城跡から見た東郷池と日本海
絶景を十分に堪能したので下山することにしました。30数年前は往路を折り返して同じ道を下山したのですが、羽衣石山の西側の別ルートを通ることにしました。すると、下り始めるや否や、道幅が狭く、すれ違うことのできないジグザクの急坂の道が続いたのです。

下り坂の左側の斜面は切り落としたかのような急斜面が広がっていました。往路に通ったコースも坂道が続いたのですが、こちら側はさらに急こう配なのです。「敵側の立場にたてば、こんな急斜面を登って攻め込むなんて、とうてい無理だよなあ」
羽衣石城概念図をみると西側には曲輪(注1)は造られていません。造る必要がなかったのです。急斜面それ自体が天然の防御となっていたのです。南条氏が羽衣山に築城しようと考えた意図が少しわかったように思いました。

羽衣石城跡概念図(東郷町誌より、真田広幸氏原図)
さらに急坂道を下っていくと、巨岩が姿を現しました。巨岩は“羽衣石(はごろもいし)”と名付けられ、天女の羽衣をかけた岩と伝承されています。湯梨浜町内の旧東郷町に「羽衣伝説」(注2)が伝えられていることは知っていましたが、伝承の現地に出かけたことはありませんでした。

「ここがあの天女伝説の場所だったのか」突如現れた巨岩に驚きながら、ただ単に知っていることと、現地に出かけて自ら感じ取り学ぶ知とは格段の違いがあることを改めて痛感しました。“無知の知”という言葉がありますが、自分はまだ何も知ってはいないのだ、という自覚こそが学びのスタートなのかもしれません。
羽衣石(はごろもいし)を後にしてさらに下っていくと、若いカップルと出会いました。挨拶をして、「県外の方ですか」と声掛けをすると、奈良県から来られたとのことでした。二人の様子を見ると、男性も辛そうでしたが、女性の方は額に汗が見え、かなりしんどそうでした。往路を私とは違う急坂道を登ってきたのです。
「もう少しですから、頑張ってください。山頂からは最高の絶景をみることができますから。大山も見えますよ」慰めの言葉になったかどうかわかりませんが、二人はゆっくりと登っていきました。
さらに下っていくと、再び見たこともない巨岩が連なる岩壁群に出会ったのです。山肌から露出した巨岩の群れとの遭遇は初めてでした。「あ!もしかしたらこの巨岩は太古の昔に火山の噴火によって形成された“安山岩”かもしれないな」

写真では大きく見えませんが、巨岩群でした

巨岩群による急な崖です。こんな所をよじ登ることは不可能です
実は、ホームページを立ち上げ、ブログ取材を続ける中で、“山陰海岸ジオパーク”と出会い、非常に興味関心を抱き、少しずつ学習をしていたので、その知識が役に立ったのです。調べて見ると、旧東郷町の平野部や東郷池の深部は花崗岩に覆われていて、その上に安山岩や玄武岩が乗っかっているのです。旧東郷町内の御冠山、鉢伏山、羽衣石山は全て安山岩の溶岩で形成された山なのです。
私たちが持っているお城のイメージは、巨石の石垣を積み上げて築かれた城です。ところが、戦国時代のお城は、“山城”です。山頂の平らな土地から階段状に曲輪を配置した形態の城のことです。なので、羽衣石城には石垣はありません。
それはそうです。こんな急峻な地形の所に石垣を組むことなどできません。しかし、山肌から露出した巨岩群に遭遇し、「これこそが、“天然の要害”と言われるものなんだな」と。
天然の要害という言葉は知っていましたが、具体的なイメージは浮かんできませんでしたが、巨岩の壁を見上げながら、初めて言葉の意味を実感しました。「なるほど、南条氏が羽衣石山に築城したのは、稀有な天然の要害の地だったからなんだ」
歴史の書物や小説には“難攻不落”という言葉が度々登場します。辞書を引けば、攻めにくく容易には陥落しないこと、と記載されていますが、天然の要害と同じくイメージはつかめませんでした。巨岩群に圧倒された後、さらに坂道を下りながら、登山前の私の二つの疑問点の回答が見つかったように感じました。
南条氏が羽衣石山に築城しようと決意したのは、恐らくは次の2点です。一つ目は、山頂からは東伯耆の3郡(河村郡・久米郡・八橋郡)を一望することができる点です。敵の様子を把握することができます。二つ目は、稀にみる天然の要害の地なので、防御面で絶好の地だという点です。

ここは平らな土地です。防御としての曲輪です

土塁もはっきりと確認できました
天然の要害の地にもう1点追加することがあります。羽衣石城に攻め込むためには、麓の平野から川幅の狭い羽衣石川を駆け上って行かなければなりません。羽衣石川が形成した羽衣石谷は谷幅は約200mと狭く、約1㎞続く谷筋を攻め込んだとしても羽衣石城を攻めるには、そこから続く急峻な山坂を登らなければならないのです。この地は全国的にみても最高度に難攻不落の要害の地だったのです。

羽衣石谷の奥に見える山頂部に羽衣石城はあります
初代南条貞宗が貞治5年(1366)に築城してから10代南条元忠まで、尼子勢に城を奪われた時期もあり、紆余曲折がありながらも、およそ250年の間、伯耆国の東半分の領主として存続し続けたのは、天然の要害の地に着眼した、いや貞宗の“慧眼”があったからにちがいありません。
(注1)曲輪(くるわ)
尾根や斜面に造られた平坦な土地のことで、周囲に土塁(どるい)や堀など
を設けた防御の施設です。
(注2)羽衣伝説については、後日、ブログで紹介します
〈 追記 〉
参考文献…『東郷町誌』(昭和60年発行)『伯耆国羽衣天女伝説』(著者 野津龍 平成27年発行)『鳥取県の山』(著者 藤原道弘 2010年発行)『羽衣石城跡及び付城跡群総合調査報告書』(湯梨浜町教育委員会 2025年3月発行)
