鳥取城の城跡めぐり①
梨楽庵

日本百名城に数えられる“鳥取城”の略歴について紹介しましたが、今回は、鳥取城の城跡めぐりをしたいと思います。鳥取駅前を北に向かうと、ほぼ真っ直ぐの道が鳥取県庁まで続いています。この国道53号線は、江戸時代の主街道のひとつだった“若桜街道”です。
タクシーに乗って若桜街道を走り始めると、前方奥に見えてくるのが、鳥取市のシンボル“久松山(きゅうしょうざん)”です。この久松山(標高263m)の山麓に鳥取藩32万石池田家の居城がありました。
久松山の山頂部に目をやると、山頂部の樹木が一部伐採され、石垣のようなものが見えます。実は、江戸時代初期には、山頂部には“天守”があったのですが、元禄5年(1692年)、落雷によって天守が焼失し、その後は再建されませんでした。

鳥取城破損御修覆願図(天和3年、1683)鳥取県立博物館所蔵

鳥取城破損御修覆願図(天和3年、1683)鳥取県立博物館所蔵(部分拡大)
山頂部に天守が建設された当時は、戦国の世の真っ最中であり、防御を目的に天守が築かれ、山城としての城づくりが行われていました。しかし、徳川幕府の体制が整うようになると、山城としての機能は失われ、平時の城として、久松山の山麓を中心に城下町づくりが行われるようになりました。
天守が焼失後に再建されなかったのは、すでにその必要性がなかったからだと思われます。城跡めぐりで紹介しますが、山頂部の天守が焼失してからは、二の丸に建設された“二の丸三階櫓”が天守としての威容を示し、鳥取城のシンボルとなったのです。
最初に、少しだけ城に関わる用語の説明をします。戦国時代に城の中に作られた区画を“曲輪(くるわ)”と言います。土地を平らに削り、周囲に土を盛り上げて土塁を築き、砦(とりで)としました。この曲輪は、江戸時代には“丸”と呼ばれ、同じ意味で使用されています。
つまり、鳥取城の場合は、山頂部にあった天守が“本丸”で、山麓部に“二の丸”“三の丸”が築かれました。本丸は“一の曲輪”、“一ノ丸”とも呼ばれていました。

鳥取城修覆願絵図(嘉永3年、1850)鳥取県立博物館所蔵
戦国時代は急峻な山を利用して“山城”が築かれましたが、江戸時代になり戦乱が収まると、平時の城として、低い山や丘陵部を利用した“平山城(ひらやまじろ)”や “平城(ひらじろ)”が造られるようになりました。平山城の代表格は姫路城です。平城は三大平城として、広島城、二条城(京都市)松本城(長野県)が有名です。
鳥取城の形態が何なのか、鳥取市歴史博物館の学芸員さんに問い合わせてみました。回答は「山頂部の山城の形態と山麓部の平山城の形態の両方を併せ持った城としての価値が評価され、国の史跡に指定されています。なので、平山城、山城と単一に呼ぶことはできない」ということでした。
つまり、鳥取城は久松山の全域が城の範囲なのです。山頂部の山城的な形態の山上ノ丸(さんじょうのまる)と山麓部の城郭が構えられた山下ノ丸(さんげのまる)、そして、中腹部の砦(とりで)などの遺構が残された部分に大きく分けられています。
それでは、次号で鳥取城跡めぐりを始めます。
〈 追記 〉
*参考資料…『特別展 鳥取藩32万石』(鳥取県立博物館)『県史31 鳥取県の歴史』(山川出版社)『国指定史跡 日本百名城 鳥取城跡』(鳥取市教育委員会事務局文化財課)『鳥取県謎解き散歩』(新人物文庫)『鳥取城のあゆみ』(鳥取市歴史博物館)『鳥取のお殿さまー天下人と歩んだ池田家―』(鳥取市歴史博物館)『山陰名城叢書 鳥取城』(ハーベスト出版)『平成26年度特別展 鳥取のお殿さま 天下人と歩んだ池田家』(鳥取市歴史博物館)『鳥取城のあゆみ』(鳥取市歴史博物館)
