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羽衣石城が国の史跡に指定②

梨楽庵

 馬野山(吉川元春軍)から見た3城の位置関係です。3城は横並びに見えますが、番城は羽衣石城の北東に、十万寺城は羽衣石城の南東に位置しています。

『東郷町誌』付図 小字全図より作成(方位は上が北)

 番城からは馬野山に布陣した吉川元春軍を見下ろすことができます。写真は羽衣石城跡から撮影しました

 羽衣石城から約850m離れた南東部の山頂部には十万寺城が築かれました。この城こそが秀吉の本陣であり、羽衣石城へ搬入する食料と弾薬の保管施設として築かれた出城だと考えられています。

 つまり、十万寺城と番城(注1)は羽衣石城を救援するための城でした。敵を攻撃するためではなく、救援する目的で築かれた陣城(じんじろ)は国内唯一だと言われています。なお、陣城とは、城攻めのときに臨時的に築かれた城のことです。

 十万寺城跡からは羽衣石城を見下ろすことができます。さらには、馬野山に陣取った元春の本陣を見通すこともできるので、秀吉の本陣(注2)だった可能性が高いと言われています。

 秀吉軍は数万、元春軍はわずか6千と伝えられています。秀吉は、経家の弔い合戦として士気の上がる元春軍と雪の季節を目前にして多くの犠牲を払うことを懸念し、主力軍の決戦を避けるように命じました。

 その後、兵糧と弾薬を羽衣石城と岩倉城に搬入し、全軍が因幡方面へ引き上げ、秀吉は姫路城へと戻って行きました。

 元春も追撃をやめたため、両軍の全面衝突は避けられましたが、秀吉軍が去った後、羽衣石城は再び孤立状態となりました。11月下旬には吉川元春軍と南条元続軍との激戦が続き、羽衣石城を離れる城兵も次々と現れ始めました。

 秀吉から兵糧と弾薬の支援はあったものの、秀吉が元春軍と戦わずして去ったため、羽衣石城の城兵の心は激しく動揺し、意気消沈したに違いありません。しかし、幸いにもこの冬は大雪に見舞われ、元春軍も攻め切ることはできませんでした。羽衣石城が持ちこたえることができたのは、大雪のおかげだったのです。

 年が明けて、天正10年(1582)春3月、毛利方と織田方の戦況を大きく変える戦いが山陽方面を舞台に始まりました。備中高松城における毛利軍と秀吉軍の攻防戦です。歴史に名高い「高松城の水攻め」が開始されたのです。

 羽衣石城をはじめ、三城が一体として国の史跡に指定されたのは、南条軍と吉川軍との戦いに織田方の秀吉軍がどのような関わり方をしたのかが、これまでは明確ではなかったのです。しかし、最新の研究によって、十万寺城と番城の存在が明らかになり、二つの城が果たした役割も推定できたので、国の史跡指定となったのです。

 国の史跡に指定されたので、十万寺城も番城も登山道等の整備がなされることと思います。今年の5月10日の快晴の日に、羽衣石山に登山し城跡等を見学しました。現地調査により、新たな学びを得ることができて満足しています。十万寺城と番城への見学がとても楽しみです。

(注1)十万寺城と番城

 東郷町誌を調べていると、付図の「東郷町小字全図」には、“番城”の小字名があります。羽衣石城跡は“古城”の小字名でした。十万寺城があった場所の小字名は、「権現堂ノ一」~「部屋ノ谷」にかけて場所のようです。十万寺城があったと考えられる場所の麓には、“拾萬寺”“権現堂”“地蔵堂”などの小字名が散見されます。

 羽衣石城が落城し、徳川方によって南条氏関連の建造物は全て焼き払われたと伝承しています。現在の十万寺の集落にあった神社・仏閣もこのとき焼き払われたにちがいありません。しかし、小字名を通して、過去の歴史に思いを馳せることができるのです。

(注2)秀吉の本陣

十万寺山は標高約423mで、地元ではこの山を「たいこうがなる」と呼んでいたそうです。実は、東郷町誌を調べていると、付図(ふず)の「標高別区域図」には“太閤が平”と明記されていることを発見しました。

〈 追記 〉

参考文献…『東郷町誌』(昭和60年発行)『伯耆国羽衣天女伝説』(著者 野津龍 平成27年発行)『鳥取県の山』(著者 藤原道弘 2010年発行)『羽衣石城跡及び付城跡群総合調査報告書』(湯梨浜町教育委員会 2025年3月発行)