農家民宿 梨楽庵ブログ

弓ヶ浜半島誕生物語

梨楽庵

大山からの眺望です。中央部が弓ヶ浜半島、奥に見える山並みが「島根半島」です

  辰年の今年は、鳥取県はとっとリュウ県

  私は小学校で鳥取県は犬の形と教わりました

弓ヶ浜半島は日本最大級の砂州(さす)の地形です

島根半島と弓ヶ浜半島に挟まれた湾が「美保湾」です。ここからの眺めは、驚くほどの絶景でした。

島根半島の後ろに見えるのが日本海です。暖流の対馬海流が流れています

縄文時代の初めの頃は弓ヶ浜半島はありませんでした

 弥生時代の頃には今よりも細長い半島でした

 奈良時代には半島は海に隠れ、島だったようです

江戸時代以降に半島に大量の砂が堆積するようになりました

明治時代の頃には、ほぼ現在に近い形になっていました

江戸時代には中国地方は「砂鉄」から「鉄」をつくる「たたら」がさかんに行われていました

大山の一の沢です。岩石や土砂が流れ落ちるのを防ぐために砂防ダムが造られています

皆生海岸です。この日は快晴でしたが、波は荒く、強い風が吹いていました

    左が皆生温泉、右奥が離岸堤です。

皆生温泉の沖合に積み上げられているのが、消波ブロックです。この離岸堤で砂浜の浸食を防いでいます

 令和6年(2024年)は辰年でした。県は、鳥取県の形が竜の形をしていると読み取り、「角を生やした竜が西に頭を向けている」と意味づけ、さらには、「鳥取は竜の化身だから辰年の今年、鳥取県は“とっとリュウ県”になりました」と宣言しました。

 全国知事会副会長の平井伸治鳥取県知事は、「ウェリュウカム・トゥ・とっとリュウ!」と、自らユーチューブで発信されました。さすがは、「スタバはないけど、スナバはある」と発言し、鳥取砂丘を宣伝するとともに、「すなば珈琲」の誕生に一役買った知事、お見事です。平井知事のダジャレ脳には、ダジャレをこよなく愛している私ですが、足元にも及びません。

 県は鳥取県の形が竜の形をしていると、観光振興のために、こじつけ?ましたが、私は小学生の時、担任の先生から、「鳥取県は犬の形をしています。頭の部分はありませんが、中国山地のところがお腹で、米子から境港に向かっている半島が犬のしっぽですよ」と教えてもらったことを今でもはっきりと覚えています。犬が竜にとって替えられたのは、やはり、平井知事の鶴の一声があったからでしょう。戌(いぬ)年生まれの私には、やっぱり犬に見えるのですが…。

 さて、今日の本題に入ります。米子から境港に向かっている、私には犬のしっぽに見える半島が「弓ヶ浜半島」です。長さ約20㎞、幅約4㎞もあり、日本最大級の砂州なのです。この半島の南側が米子市で北側が境港市です。鳥取県の4大都市?のうち、2つが乗っかっているのです。

 この半島の成り立ちについては深く考えたことはなかったのですが、長瀬高浜遺跡を調べているときに、埴輪群が砂に埋もれてしまった要因の一つが天神川上流で行われていた「鉄穴(かんな)流し」だったことを知りました。

 鉄穴流しについては学校教育で学ぶ機会はありません。なので、私には何のことか全くわかりませんでした。でも、埴輪の埋没に関係のある鉄穴流しって一体何なの?と疑問に思い調べてみると、鉄穴流しが弓ヶ浜半島の成り立ちにも関係していることがわかってきたのです。

 実は、弓ヶ浜半島は1万年以上前の大昔には存在していなかったのです。約7000年前の縄文時代前期にも半島はなく、約2400年前ごろの弥生時代になって、今よりも細いけれど半島の姿を形作っていたようです。しかし、奈良時代には陸地の大部分が海底に沈み、「夜見島(よみのしま)」と呼ばれた細長い島だったようです。その後、江戸時代から明治時代にかけて現在に近い姿になっていったと考えられています。長さ約20㎞、幅約4㎞は膨大な量の砂です。一体、弓ヶ浜半島は、どのように形作られていったのでしょうか。

 地図をよく見ると、弓ヶ浜半島の付け根の部分に日野川の河口があります。この日野川の上流では、江戸時代の前期頃から「砂鉄」を採るために、「鉄穴(かんな)流し」が行われていて、たくさんの土砂が川に流れ込んでいました。鉄穴(かんな)流しとは、山を切り崩して水路に流し込み、製鉄の原料となる「砂鉄」を採取するやり方のことです。

 日野川の上流部の山は広い範囲が「花崗岩」でできています。花崗岩には鉄の成分が含まれています。花崗岩を切り崩して土砂を水路に流し込むと、砂鉄は重いので底に沈みます。砂が流れた後で水路の底から砂鉄を採り出すやり方が「鉄穴流し」です。

 日野川に流れ込む中小の川の周辺には集落がつくられました。山間部は田畑が少ないので、砂鉄を採る鉄穴流しがさかんに行われ、砂鉄の収入が人々の生活を支えていたのです。

 ところが、鉄穴流しには問題点がありました。切り崩した花崗岩の土砂を大量に川に流し込むため、泥水や土砂が本流の日野川に流れ込み、川底が高くなって洪水が発生しやすくなったのです。そのため、日野川下流部の農村では、たびたび洪水が起こり、大きな被害が発生したのです。

 鉄穴流しによって川に流れ込んだ土砂は、洪水が起きるたびに下流に流れ込み、最後には日本海まで達します。実は、弓ケ浜半島は、鉄穴流しによって日野川に流れ込んだ膨大な量の土砂と、大山の山崩れによって流れ込んだ大量の土砂によって形作られた半島だったのです。美しい弓の形をしているのは、日本海に流れ込んだ大量の砂が「潮流」と「強風」の自然の力の組み合わせによって、長い年月をかけて形作られたからなのです。

   島根半島の後ろ側には日本海が広がっています。ここは南から北に向かって暖流の対馬海流が流れています。この海流が大山の麓付近の陸地にぶつかって、東寄りの強い風の影響を受けて美保湾内に流れ込んでいるのです。

 さらには、島根県の宍道(しんじ)湖から鳥取県の中海(なかうみ)にかけての水域は、本州側の陸地と島根半島に挟まれた地形のために、西寄りの風や東寄りの風が吹き抜ける風の通り道となっています。つまり、弓ヶ浜半島は、絶妙な地形と潮の流れと風の組み合わせが生み出した奇跡的な地形なのです。

 江戸時代が終わり明治になると、近代工業が発達し、造船業や鉄道建設などで鉄の需要が格段に増えました。しかし、鉄穴流しによって作られる砂鉄はコストが高く、外国から輸入する鋼鉄の方が安価だったので、明治22年(1889年)頃をピークに、鉄穴流しはしだいに減少し、やがて消滅したのです。

 鉄穴流しが衰退した影響は、弓ヶ浜半島の付け根付近にある皆生(かいけ)温泉の砂浜に現れました。鉄穴流しによって運ばれていた土砂が急速に減少し、皆生海岸の砂浜がやせ細ってしまったのです。

 昭和10年代には、海岸浸食が進み、温泉旅館が流失する被害も発生しました。昭和30年には、大波浪によって一夜にして砂浜が約20mも浸食したこともありました。洪水防止のために、日野川の河川工事や上流部のダム建設、堰(せき)などの改築工事が進められ、土砂の流出が減少してきたことも砂浜が細くなった要因だと言われています。

 昭和35年には、皆生海岸の浸食防止は緊急を要する課題と判断され、全国で初めて国が直接管理する、建設省(現在の国土交通省)の直轄工事区域に指定されました。沖合には離岸堤が設けられ、護岸等の浸食対策工事が進められました。

 現在の状況は、対策をした箇所では浸食の進行は軽減していますが、未整備の場所では浸食は今も進んでいます。新たな対策として、離岸堤の改良や砂の堆積が増加傾向にある場所から砂を運び出し、減少傾向にある砂浜に運び入れるサンドリサイクル(注1)が行われています。

 弓ヶ浜半島が竜の角なのか犬のしっぽなのかは別として、地図を眺めているだけではわからなかった半島の成り立ちが、歴史を調べることでより深く理解することができました。20代の頃、弓ヶ浜半島の付け根にある米子市内の中学校に2年間勤務していたにも関わらず、当時は身近な地域の歴史にはほとんど無関心でした。

 農家民宿を立ち上げ、ホームページを作成し、ブログで鳥取発信を思い立たなかったならば、故郷鳥取については薄っぺらな知識のままで日々を無為に過ごしていたのかもしれません。「関心」を英語ではinterestと書きます。何かに関心を持ち、その関心を持ち続け(ing)、追及していくと、いつの間にかその関心事をinteresting、おもしろいと感じ始めるのです。今頃になって、ようやくinterestとinterestingの意味を深く実感することができました。学びとは、実に楽しいものです。

(注1)サンドリサイクル…重機や浚渫(しゅんせつ)船で堆積砂を掘削し、陸上運搬や海上運搬を行って浸食箇所へ投入するやり方のことです。

*弓ヶ浜半島の変化の様子の地図は、地質ニュース668号「砂と砂浜の地域誌(23)島根県東部の砂と砂浜」から引用しています。