農家民宿 梨楽庵ブログ

天神川と闘った先人たち

梨楽庵

穏やかに流れる天神川です。奥の山々は、左側が蒜山(ひるぜん)、右側が大山(だいせん)です

天神川の河口付近です。今は冬鳥の楽園となっています

冬鳥の数も日によってちがいます。そろそろ北帰行が始まります

 鳥取県の三大河川は、東部の千代(せんだい)川、中部の天神(てんじん)川、西部の日野(ひの)川の3つの一級河川を言います。いずれの河川も豪雨や台風等によって、古来、たびたび洪水による自然災害を繰り返してきました。

 中部地区を中国山地から日本海に向けて流れる天神川も中部の暴れ川と呼ばれ、人々を悩ませてきた河川でした。前回のブログで紹介した平成15年撮影の東郷池周辺の航空写真をご覧ください。右隅を日本海に向けて流れている川が天神川です。

 次に、『伯耆国河村郡東郷荘下地中分絵図』をご覧ください。絵図が作図された鎌倉時代(正嘉2年、1258年)には、天神川は“北條河”と呼ばれていました。その頃、北條河は現在の湯梨浜町長瀬地区の辺りを蛇行して流れ、東郷池から日本海に流れ出る“橋津川”と河口付近で合流していたのです。

 『伯耆国河村郡東郷荘下地中分絵図(模写本)』(東京大学史料編纂所所蔵)

 それでは、いつの時代に天神川の流路を変える工事が行われたのでしょうか?予想してみてください。それは江戸時代になってからでした。鎌倉時代が終わってから、南北朝時代、室町時代と時代が下るにつれて、日本全国で戦乱が広がる時代が続きました。

 戦乱が続くと、各地の武士たちは、領内を流れる大小の暴れ川に悩まされながらも、河川の改修工事に落ち着いて取り組むことができません。室町時代の末期になり、広い領土を獲得した戦国大名の中には、暴れ川対策に取り組んだ大名もいました。「信玄堤(しんげんづつみ)」と呼ばれる堤防を築いた甲斐(かい)国(山梨県)の武田信玄が有名です。

 江戸幕府が誕生し、幕府政治が安定し、各地の大名たちも治めている藩内の経済的な安定を図るためには、主産業である農業生産の安定をめざすことが最重要事項でした。そのためには、藩内の暴れ川を改修する事業に取り組むことが緊急を要する課題だったのです。

 天神川の改修工事が行われたのも江戸時代になってからでした。次の絵図は、正保年間(1644年~1648年)に幕命によって鳥取藩が作成したと言われる『正保国絵図(しょうほうのくにえず)』です。この絵図では、天神川の流路は『東郷荘下地中分絵図』とほぼ同じように描かれています。

『正保国絵図(1644年~1648年)』です(鳥取県立博物館所蔵)

 元禄11年(1698年)には、鳥取藩は再び、「因幡国絵図」と「伯耆国絵図」を作成しています。この絵図は、『元禄国絵図(げんろくのくにえず)』と言われています。この絵図を見ると、天神川の流路と河口は現在とほぼ同じになっています。ということは、二つの絵図が描かれた間に天神川の流路変更の工事が行われていたことになります。

『元禄国絵図』(1698年)です(鳥取県立博物館所蔵)

 鳥取藩政資料「控帳」の明暦3年(1657年)8月4日付の記述に次の一文が記載されています。

 「河村郡大河筋天神川より海へ直ニ百姓普請ニて堀通し之儀、由宇勘平被仰、

御意候へハ可申付旨被仰出候。即、御普請奉行之儀沖田源兵衛、左右田源右衛門、西村七左衛門より被申入候。百姓ニハ出人一人ニ付一日ニ七合五勺宛御扶持方より遣事。

 当時、鳥取藩郡代は由宇勘平(ゆうかんべえ)が勤めていました。「控帳」によると、由宇勘平の進言によって藩命が下り、周辺の村々の百姓が原則、費用を負担する“百姓普請(ひゃくしょうぶしん)”によって天神川の改修工事が実施されたことが読み取れます。藩からは百姓一人当たり一日につき、“七合五勺”が支給されたようです。(注1)

 文中に“天神川”と表記されていることから、この頃にはそう呼ばれていたようです。天神川の改修工事は、蛇行して流れ、橋津川と合流している流路を変更し、北条砂丘を北へと直流させる大工事でした。

 明暦3年(1657年)の秋ごろに着工され、寛文(かんぶん)元年(1661年)の春ごろまで、約3年半の歳月をかけてようやく完成しました。難工事だったのは、天神川が右折し東の方向へ流れを変えていた付近に硬い岩山があり、取り除くのが困難だったからです。

 由宇家家譜(鳥取県立博物館蔵所蔵)の寛文6年(1666年)8月1日付の一文が次のように記されています。

 「白州河村郡天神川、長瀬村橋津村之間流レ居申候処、右長瀬村江北村之間浜ニ相成居申候ニ付、川筋付替、唯今ニては長瀬村江北村之間流レ相成、長瀬村橋津村之間御新田仕候て、久留村と申候。」

 家譜によると、天神川を付け替えたことによって、“新田”が開発されて、新たに“久留(ひさどめ)村”が誕生したことが読み取れます。文献上、久留村の記載がされた初見だと言われています。

 なお、天神川の直流改修工事が実施される以前の川の流域地には、“御蔵船川”が残されています。この船川は橋津川の河口に設けられた“橋津藩倉”へ年貢米を運ぶ輸送路として、川幅を狭めながらも水上交通の必要性から残されました。現在の国道179号線沿いと湯梨浜町役場本庁舎の裏を流れる川は、江戸時代の川道の一部だと推定されています。

舟運と灌漑用水のために「舟川(ふなかわ)」として川跡の一部が残されました

 北條河と呼ばれていた川が天神川と呼ばれるようになったのは、現在の北栄町江北にある北野神社の社名に由来していると言われています。北野神社の祭神は“天神さん”として崇められた菅原道真です。北野神社は天神川が右折東進していた岩山付近に鎮座していましたが、直流工事によって天神川河口左岸の現在地に移設されたと言われています。(注2)

 現在、天神川の河口付近を眺めていると、上流の倉吉方面から日本海に向かってほぼ真っ直ぐに北流している川が、今からおよそ350年以上前は、橋津川と合流していたとは全く想像できません。しかし、先人たちの努力のおかげで天神川流域の洪水防止が図られ、河川水の利用によって私たちの生活環境が著しく改善されてきたのです。改めて、歴史から学び取ることの大切さを痛感しました。

「天神川直流化事業顕彰碑」が天神川下流の右岸に建てられました(令和3年4月)

「天神川旧河道」の右手が「橋津川旧河道」です(鳥取県立博物館展示資料)

(注1)百姓普請…江戸時代における河川堤防等の改修は、幕府や諸藩が負担する「御普請」と周辺の村落が費用を出し合って行う「自普請」がありました。

(注2)北野神社…祭神は菅原道真、江北村の産土神(うぶすながみ)で、創建は養和元年(1181年)と伝えられている。天正9年(1581年)、因幡国鹿野城主となった亀井茲矩(これのり)は、天神信仰に篤(あつ)く、約330m四方の土地を献じて家臣の磯江平内に命じて社殿を造営させた。茲矩は島根県津和野に移封された後も、鹿野に墓参りのために帰ると、その途中、北野神社に参拝したといわれる。神社が建立された時からここの地名を「天神山」、この下を流れる川を「天神川」と呼ぶようになった。当時天神川は天神山の岩にぶつかって東に向かい、「長瀬」の南側を経て橋津川に合流し、日本海に注いでいた。(『新修北条町史』より転載)

*参考文献…『東郷町誌』『羽合町史 前編』『新修羽合町史』『保存版 東郷荘絵図 徹底解説ガイド』平成21年(2009年)湯梨浜町企画課