因幡・伯耆の山城盛衰記④
梨楽庵

〈 秀吉の第一次因幡攻め 〉
天正8年(1580)4月1日、姫路城を出発した秀吉は、因幡への攻撃を開始しました。一方、秀吉の命を受けた秀吉の弟の羽柴秀長は、但馬へ進軍し、同年5月、山名一族の惣領である山名祐豊の居城である出石城(兵庫県豊岡市)を落城させました。祐豊は病死し、子の氏政も降伏し、但馬を織田氏は平定しました。
山名氏は、山名時氏以降、約250年間も山陰地方に勢力を持ち、南北朝時代には全国66カ国中の“11カ国の守護”として“六分一殿(ろくぶいちどの)”と呼ばれ、応仁の乱では西軍の将として強大な権力を誇っていましたが、ついに、歴史の舞台から消え去ることになりました。
5月21日、先鋒隊が鳥取城下に到着し、その後、秀吉も到着しました。因幡の西部では、織田方に寝返った南条元続が青谷まで進軍していました。秀吉軍の一部は鹿野城へ進軍しました。鹿野城は毛利方の需要な拠点であり、鳥取城主、山名豊国や因幡の国人衆の人質が置かれていました。
5月26日、秀吉軍は鹿野城を攻撃し、人質を奪い返しました。信長は城も人質も討ち果たすつもりでしたが、南条元続の嘆願により助命しています。
秀吉の因幡への進軍によって、鹿野城はじめ、因幡国内の諸城は次々と落城し、秀吉軍の支配下となりました。その結果、鳥取城へ通じる因幡国内の主要な陸路は、ほぼ封鎖されたのです。

5月27日、秀吉は「鳥取城を一気に攻め崩したい」との考えを書状で信長に申し出ています。「戦が長引けば、毛利の援軍がやってくるので、それまでに攻略したい、と考えたのです。
ところが、信長の書状には「小敵だと侮り、深々と攻め入り、万が一敗北するとよろしくない。攻め方をよく考え、油断なく作戦を立てることが肝要である」と作戦を熟慮するように書かれていたのです。
信長の書状を受けて、秀吉は鳥取城へ直接攻撃を仕掛けるのではなく、鳥取城を厳重に包囲する作戦に切り替えたのです。秀吉は、攻め滅ぼした因幡の諸城に、生き延びるために毛利氏から離れ、秀吉に寝返り忠誠を誓った但馬の武将たちを配置したのです。
鹿野城には亀井玆矩(これのり)を配置しました。亀井玆矩は出雲国の生まれで、父は尼子氏の家臣でした。尼子氏滅亡後は、“尼子氏再興”を願う山中鹿之助に従い各地を転戦していました。その後、信長、秀吉に仕え、鳥取城攻めの戦功により、気多郡を与えられて、鹿野城主となりました。
鳥取城を包囲した秀吉は、5月26日の鹿野城の攻撃によって手に入れた「鳥取城に立てこもった武士たちの人質」を盾に、山名豊国に降伏を迫りました。6月初旬、城を包囲され、人質も捉えられた豊国は、秀吉に降伏しました。鳥取城は織田方の支配下になったのです。
秀吉軍が但馬国と因幡国を平定した結果、伯耆国をめぐる攻防戦が毛利氏と織田氏の間で始まったのです。
〈 伯耆国をめぐる攻防戦① 〉
天正8年(1580)4月下旬、父の死後、織田方に寝返った羽衣石城主、南条元続と弟の岩倉城主、小鴨元清の兄弟は、毛利方の重要拠点だった八橋城を攻撃し、激しい戦いが行われました。八橋城をめぐる攻防戦は2度に及びましたが、激戦の末、毛利方が城を死守しました。

同年5月、備中にいた吉川元春は富田城に入り、軍勢を率いて船上山へ移動し、東伯耆へ進軍を始めました。8月中旬、吉川軍は南条氏に対し、本格的な攻撃を開始しました。激戦の舞台は、東郷池の南岸の湯梨浜町長和田でした。

秀吉は鹿野城の亀井玆矩に対し、直ちに援軍を送るように命じました。戦いは長和田から羽衣石にかけて広い範囲で行われました。南条勢100人以上が討ち取られ、この時の長和田合戦では、吉川軍が勝利しました。しかし、両者の攻防戦はその後もたびたび続いたのです。

長和田から羽衣石谷にかけては、毛利方の吉川軍と織田方の南条軍との間で激戦が繰り返されました。

馬野山からは羽衣石城を遠望することができます。羽衣石城には30年ほど前に行ったことがあります。春になったら羽衣石城に行こうと思っています。

羽衣石の集落の麓からの写真です。山頂にはまだ雪が残っていました。
(次号へ続きます)
