農家民宿 梨楽庵ブログ

因幡・伯耆の山城盛衰記⑤

梨楽庵

鳥取市出身のイラストレーター毛利彰氏が描いた肖像画をもとに、鳥取市在住の彫刻家、奥谷俊治氏が作成されました。

    〈 鳥取城主の交代劇 

 天正8年(1580)9月、鳥取城主、山名豊国の降伏により織田方となった鳥取城でしたが、重臣たちは不満を抱いていました。さらには、東伯耆における南条氏と毛利氏との攻防戦で、吉川軍優位の知らせが届くと、「毛利に味方すべきだ」との意見が強まり、豊国に対する反感が高まりました。

 同年、9月21日、重臣たちは豊国追放を決断しました。城主豊国は、10数名の家臣と共に、鳥取城を出て、京都へ逃れました。この結果、鳥取城は再び毛利方となり、元春は500~600名の軍を派遣し、鳥取城の守備固めを開始したのです。

 豊国を追放した重臣たちは、秀吉軍に対抗でき、1000人を超える城内の兵員を統率できる武将を吉川一族の中から派遣することを元春に要請しました。要請に応じて、元春が派遣したのが石見国福光城主(島根県大田市)、吉川経家でした。経家は、経安から28歳で家督を継ぎ、城主となっていました。

 天正9年(1581)1月14日、元春から経家に鳥取城主への派遣命令が下りました。元春は、因幡を平定すれば600石を与えることを約束しました。2月26日、後継ぎの亀寿丸(かめじゅまる)に遺言状を書き残し、死を覚悟の出陣でした。

 海路で因幡へ向けて出港した経家は、途中、出雲国出雲郷(あだかや)で元春と面会し、3月18日、千代川河口の賀露に到着し、鳥取城下で因幡武士たちの出迎えを受けながら、10時頃に入城しました。

   毛利彰氏が描かれた吉川経家の肖像画

 経家は、「土地柄といい、山柄といい、立派な城である。この日本を代表する名山、鳥取において、末代まで名を残すことを名誉に思う」と、鳥取城の印象を、福光城の重臣へ書状を送っています。

      〈 鳥取城主 吉川経家の戦略 〉

 吉川経家は、港のある賀露と鳥取城の中間に位置する丸山城に臣下を配置し、防御態勢を整えました。今とは違い、当時の丸山城下には川が流れており、日本海から船で運ばれた物資は丸山城を中継地として、尾根伝いに鳥取城へと運ぶことができたのです。

 しかし、経家の最大の難題は、兵糧(ひょうろう)不足でした。秀吉軍の侵攻と戦乱による田地の荒廃が不作を招き、因幡国内の全域で、毛利方、織田方、両軍とも兵糧の現地調達が非常に困難になっていたのです。

 天正8年(1580)12月上旬、元春から経家へ鳥取城主への派遣命令が下る約1か月前のことでした。信長の西国への出陣が天正9年(1581)の春に決定したことを秀吉は亀井玆矩と南条元続に書状で伝えています。そして、天正9年(1581)6月2日には、信長の出陣が6月25日に決定したことを二人に伝えています。

 秀吉軍に対する経家の打開策は、“徹底した籠城戦”を行うことでした。因幡国内の諸城を攻撃して兵力を分散させるよりも、鳥取城に兵力を集中させて戦った方が有利だと判断したのです。

 城内には、因幡の武士と毛利方の援軍を合わせると約1400人の軍兵(ぐんぴょう)がいました。鳥取城は堅固な要害であり、鉄砲・玉・火薬も十分にあり、秀吉の大軍を相手にしても十分に戦えると考えたのです。

 ところが、因幡の家臣たちは、兵糧不足の現状では戦えない、籠城戦を行うのなら、十分な兵糧を準備してほしいと要求したのです。悩みぬいた経家は、元春に兵糧の支援をたびたび要求したのです。

 経家が籠城戦を決めたもう一つの理由は、現地の気候を判断材料にしたからです。秀吉が7月に進軍しても、因幡滞在は10月までであろう。11月以降は大雪に見舞われるから、雪の季節まで3~4か月持ちこたえれば落城はない、と判断したのです。

 籠城戦を決定した経家は、戦局を打開するためには、元春からの兵糧の支援を待つしかなかったのです。

(次号へ続きます)