因幡・伯耆の山城盛衰記⑥
梨楽庵

〈 秀吉の第二次因幡攻め 〉
天正9年(1581)6月下旬、秀吉軍の但馬・因幡への二度目の攻撃が開始しました。まずは、先鋒隊が次々と因幡に入り、秀吉軍の本隊約2万余りの大軍は、6月27日に姫路城を出発し、織田方に抵抗した但馬の一揆勢を平定し、7月12日、鳥取城の北東の高山に着陣しました。秀吉が陣を構えたこの場所を本陣山、太閤ケ平(たいこうがなる)と呼んでいます。
秀吉の鳥取城の包囲網は厳重で、三重の包囲網が敷かれたと言われています。第一は、鳥取城を囲む包囲網です。秀吉の弟の秀長をはじめ、有力家臣たちが配置されたのです。

久松山への補給ラインは、賀露→丸山城→雁金山砦(かりがねやまとりで)→久松山でした。当時は丸山城の麓は袋川が流れていて、丸山城は賀露の港からの海上輸送の補給基地となっていました。
秀吉はこの補給路を断つことを考え、秀吉の命を受けて、家臣の宮部継潤(けいじゅん)が雁金山砦を激戦の末、攻略しました。その結果、久松山への補給路が断たれてしまい、経家には大きな打撃となったのです。

秀吉が陣を構えた本陣山(太閤ケ平)から見た久松山です。こんなに近くに見えるのです。

秀吉側からは久松山から雁金山(かりがねやま)、丸山城の様子が丸見えなのです。

驚くことに、吉川軍の拠点、大崎城も見えるのです。数十年ぶりに本陣山に登りましたが、事前学習をしてから現地を訪れると、新たな発見の連続でした。

第二の包囲網は、因幡国内の諸城をおさえた結果、鳥取城へ向かう陸の交通路は封鎖されたのです。そして、第三の包囲網は、毛利方から寝返った南条元続と宇喜多直家の因幡と伯耆の国境付近の包囲網です。

〈 伯耆国をめぐる攻防戦② 〉
第三の包囲網の鍵を握っていたのが毛利方から寝返った南条元続でした。伯耆国をめぐる攻防戦①で触れましたが、天正8年(1580)4月下旬以降、羽衣石城主の南条元続は東郷池南端の長和田付近から羽衣石谷付近で、弟の岩倉城主、小鴨元清は、岩倉城周辺で吉川軍と激戦を繰り返していました。



羽衣石谷は羽衣石城の麓まで約3㎞続く細長い谷です。谷幅は狭く、曲がりくねっています。羽衣石川のすぐ近くに東と西から山が迫っているので、羽衣石城を攻めるには、この谷を駆け上るしか方法はありません。

馬野山から羽衣石城を遠望することができます。
天正9年(1581)6月、秀吉軍の再度の進軍が迫った頃より、再び羽衣石城から長和田にかけて、吉川軍と南条軍の戦いが激しさを増し、7月から8月にかけて戦闘が続けられました。
当時、元春は出雲の富田城にいましたが、石見国の家臣に対し、兵糧船と警固船(けごぶね)の派遣を要請し、元春も出陣し、9月20日頃、茶臼山(北栄町国坂)に着陣しました。しかし、南条軍との激戦が続いたため、東伯耆から因幡へ向けて陸路を通じて鳥取城を支援することはできなかったのです。

天正9年(1581)10月、吉川元春は茶臼山から馬野山へ移動し、秀吉軍と対峙しました。写真は、元春が本陣を構えた馬野山から眺めた景色です。
〈 日本海をめぐる攻防戦 〉
南条軍との戦闘が続く状況下では、鳥取城を支援する方策は、日本海を通じて援軍と兵糧を海上輸送する以外の道はなかったのです。すでに述べたように、元春は富田城から伯耆に向けて出陣する際に、石見国の家臣へ輸送船を要請していましたが、船と船の漕ぎ手の調達が非常に困難でした。

一方、陸路を封鎖した織田方は、鳥取城へ通じる千代川の河口(賀露)付近を中心に海上封鎖の準備を始めていました。天正9年(1581)7月には、織田方の家臣、松井康之(やすゆき)が丹後国の海賊たちから構成された船団を率いて賀露付近に来ていました。
同年9月16日、松井水軍は泊城(河口城)を攻撃しました。泊城下には毛利方の船団、65艘(そう)が停泊していましたが、警固船を全て流し捨てました。泊城にも押し入り、放火しています。泊城は私の地元にあった城で、梨楽庵からも間近に見上げることができます。

実は、伯耆国をめぐる攻防戦②で吉川軍と南条兄弟(元続・元清)が激戦を展開していましたが、この時期、つまり、天正8年(1580)12月2日に、南条兄弟は泊城を攻撃していたのです。泊城の城主は毛利方の河口久氏でした。
河口久氏は毛利方の家臣で西伯耆の尾高城主、杉原盛重の娘婿であり、重要な家臣だったのです。12月2日の戦闘では城を守り切りました。泊城は海に面した急峻な山城であり、城下には港もあり、毛利方にとっては海上輸送の拠点のひとつであり、泊城は鳥取城支援の最前線だったのです。

毛利方は泊城を援護するために、毛利方の大崎(おおさき)城(鳥取市気高町)から援軍を派遣しましたが、援軍も松井水軍に敗れ、大崎城の山下も焼き払われました。大崎城は岬の上に築かれた山城で、海上交通の拠点でした。この結果、海上輸送での支援も絶望的となったのです。

ここは5合目からの眺望ですが、大崎城の山頂部からは因幡国の海岸部をほとんど見渡すことができるのです。多くの戦国武将がこの城を奪い合ったことも、現地を訪れたからこそ感じることができました。
(次号へ続きます)
