農家民宿 梨楽庵ブログ

因幡・伯耆の山城盛衰記⑨

梨楽庵

    羽衣石谷の奥深くに羽衣石城はあります

    〈 備中高松城の攻防戦 

 天正10年(1582)春3月、毛利方と織田方の戦況を大きく変える戦いが山陽方面を舞台に始まったのです。姫路城を出発した秀吉軍は毛利方の重要拠点の備中高松城(岡山市)を攻撃しました。

 山陽方面の戦況が大きく変化したため、吉川元春は南条軍との戦地だった東伯耆を離れ、毛利輝元のもとへ向かいました。元春は、伯耆国内にいた吉川軍の大部分を備中へ派遣したため、羽衣石城周辺には一部の軍勢のみが残され、南条軍と対峙したのです。

 同年5月、秀吉は高松城の“水攻め”を開始しました。毛利元就の孫、毛利輝元は叔父の吉川元春、小早川隆景と共に大軍を率いて救援に向かいましたが、水中に孤立した高松城を助けることはできませんでした。

 戦況を打開するために、輝元は秀吉との和睦を決断し、使者を派遣しました。秀吉は、伯耆・出雲・美作:備中・備後の5カ国の割譲と高松城主、清水宗治の切腹、を和睦の条件として要求しました。交渉は難航しました。

 同年6月2日、京都で本能寺の変が起こり、その急報が秀吉のもとへ届いたのです。信長の安否も明確ではなく、本能寺の変の事後処理も迫られる中、交渉が長引けば長引くほど、秀吉自身の今後に大きな影響を及ぼすのではないか、と秀吉は考えたのです。

 毛利方に本能寺の変の知らせが届く前に、和議をまとめる必要があったのです。秀吉は和睦の条件を、伯耆・備中の半国の割譲にゆるめ、急いで毛利と和議を結び、急遽、京都へと引き返しました。

    〈 羽衣石城の落城① 〉

 備中高松城での合戦が終了し、東伯耆に残された毛利方の武将たちは、元春軍の帰陣を待ちながら、南条軍と対峙していました。ところが、元春は合戦の戦後処理にあたっており、帰陣し再び参戦することは無理な状況でした。

 同年9月、南条軍の中で密かに毛利方と内通する者が出て、城内で騒動が発生しました。このとき、毛利方の家臣、山田重直は羽衣石城を攻撃し、主な武将は討ち取られました。南条元続はわずかに4,5名の家臣に守られ、かろうじて命からがら城を脱出しました。ついに、羽衣石城は落城したのです。

    〈 南条元続の復帰 〉

 天正11年(1583)、秀吉と毛利氏との間で領土画定交渉が始まりました。秀吉は高松城の和議の際に約束した、東伯耆三郡の割譲を再度要求しました。毛利方は、東伯耆三郡の話は信長との間に結ばれたものであり、信長亡き後は無効である、と主張しました。

 結局、秀吉は聞き入れず、交渉の結果、東伯耆三郡は秀吉が手にすることになりました。同年末、秀吉は東伯耆三郡を南条元続に与え、元続は羽衣石城主に復帰しました。

苦難を乗り越え、南条元続は城主に復帰しました。

(次号へ続きます)