久松山ってどんな山?②
風景

久松山の山頂からは鳥取平野が一望できます。中央部に千代川、奥に湖山池が見えます
久松山の山頂の天守台からの眺望に魅了されながらも、やはり、戦国時代に久松山を舞台に繰り広げられた、織田方の羽柴秀吉軍と毛利方の吉川経家軍との一大決戦に思いを馳せなければなりません。
天下統一をめざした信長は中国地方を手に入れるために、部下の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を中国地方に派遣しました。秀吉は現在の兵庫県から岡山県に進軍し、次々と城を攻め落とし、天正9年(1581)、毛利氏の家臣、吉川経家が城主の鳥取城を攻撃したのです。秀吉軍は約2万の軍勢、一方、鳥取城内には、4千名弱の兵しかいませんでした。
難攻不落で知られた鳥取城を攻略するために、秀吉は「兵糧攻め」の策を講じました。鳥取城の周囲約12㎞の範囲に、堀や柵や塀を築き、食料や物資が城内に届かないようにしたのです。
城内に閉じ込められた兵たちは飢えの苦しみに必死で耐えましたが、石見国(島根県)から派遣された毛利氏の救援船が織田軍の水軍に敗れ、食料の補給ができなくなったのです。
4ヶ月間籠城しましたが、吉川経家は部下たちを救うために城を開け渡すことを決意し、自らは自害し、鳥取城は落城しました。経家は名君として讃えられ、現在、鳥取城跡近くに、銅像が立てられています。

鳥取城を落城させた後、秀吉は大軍を湯梨浜町内まで進軍させました。その理由は、町内には羽衣石城があり、秀吉に味方する南城氏が毛利氏の家臣、吉川氏と激戦を繰り返していたからです。
南城氏の援軍として鳥取から軍を進めた秀吉でしたが、経家の弔い合戦として、馬野山で決死の覚悟で待ち構える毛利軍と一戦交えることは、多くの犠牲者を出すと判断し、戦うことなく大軍を引き上げたのです。軍を引き上げたのは、岡山方面での毛利軍との戦況に変化が生じたからです。
実は、秀吉軍と毛利軍との鳥取城での戦いは、梨楽庵のある泊とも関係があったのです。山陰本線泊駅の近くの裏山に通称「城山」と呼ばれている山があります。その山頂には河口城と呼ばれた山城があったのです。

現在の泊漁港(湯梨浜町)と河口城のあった城山
河口城の城主は毛利方の河口久氏でした。河口城の真下に見える泊港には毛利方の援軍が多数停泊していたのですが、船は破壊され、城も焼き払われてしまったのです。鳥取城を支援する重要な拠点だった河口城の落城は、毛利軍に大きな痛手となったのです。
先日、久しぶりに城山に出かけ、河口城跡を歩いてみました。現在は雑木に覆われて城があった形跡は見当たりませんが、440年以上前に湯梨浜町も戦国の世の激動の荒波に巻き込まれていたことに思いを巡らせました。
久松山の本丸からは秀吉が陣を構えた本陣山を臨むことができます。秀吉の本陣があったので太閤ケ平(たいこうがなる)と呼ばれています。毛利氏本隊が鳥取城の救援のために進軍した場合には、信長自身が出陣することを前提に築かれた本陣だったと言われています。

無線中継用のアンテナが見える場所が太閤ケ平
現在の太閤ケ平は樹木が生い茂り、周囲を見渡すことはできませんが、当時は鳥取城を監視し見渡すために樹木は伐採されていました。今でも太閤ケ平を少し下った道路からは久松山の山頂部を見渡すことができます。
久松山の標高は263m、本陣山の標高は252mで、やや低いのですが、不思議なことに本陣山から眺めると、久松山の山頂は眼下に見下ろすように見えるのです。つまり、秀吉側からは経家軍の動きが手に取るように見えるのです。

太閤ケ平(本陣山)側から見た久松山山頂部
鳥取県民としては秀吉による鳥取城の兵糧攻めは負の歴史ですが、久松山に登山するならば、兵糧攻めで苦しめられた当時の城内の人々や城主の吉川経家の胸の内にも思いを馳せることも大切ではないでしょうか。
気象条件がそろえば、鳥取砂丘から伯耆富士“大山(だいせん)”を遠望することができます。ということは、久松山の天守台からも大山を見ることはできるはずです。次回には是非とも大山を眺めてみたいものです。
復路は中坂を下りました。足場は急坂な岩場が中心ですが、ゆっくりと慎重に足を運べば大丈夫です。下り始めるやいなや、巨樹に囲まれた森の中に入り込みます。久松山は冬でも落葉しない広葉樹の森で、照葉樹林の山として知られています。
二ノ丸の稲荷神社までは25分ほどで到着することができました。次回は新緑に覆われた中坂道から山頂をめざそうと思います。大山がどのように見えるのか、今からワクワクしています。
