難攻不落の羽衣石城①
梨楽庵

“羽衣石城”というお城をご存知でしょうか。おそらく“羽衣石”という文字に初めて出会った人は、“はごろもいし”と読まれるのではないでしょうか。“うえし”と読まれた方は、戦国時代に織田方と毛利方が激突し、戦乱の舞台となった鳥取県の歴史に関心のある方ではないでしょうか。
羽衣石城は湯梨浜町にある標高376mの羽衣石山(うえしやま)の山頂に築かれた山城です。朝廷が2つに分かれて対立した南北朝時代の貞治(じょうじ)5年(1366)、南条貞宗が羽衣石山に築城したと言われています。
戦国時代の中国地方は毛利氏の勢力下にあり、天下統一をめざした織田信長は羽柴秀吉を派遣し、毛利氏への攻撃を開始しました。その結果、二大勢力の間に置かれた、現在の鳥取県域にあった伯耆国と因幡国では、二大勢力に味方する地元の武士たちの間で激戦が繰り返されました。
特に、久松山に築かれた“鳥取城”と東郷池の南岸の山奥に築かれた“羽衣石城”をめぐる攻防戦は、戦局を大きく左右する決戦となりました。これらの戦いについては、すでに“因幡・伯耆の山城盛衰記①~⑩”でお伝えしていますので、ご一読ください。
先人の文献を参考にしながら“山城盛衰記”をまとめましたが、羽衣石山に登ったのは30数年も前のことです。「なぜ南条氏は羽衣石山に城を築こうと思ったのか?紆余曲折がありながらも、なぜ南条氏は10代234年間(注1)も羽衣石城を死守することができたのか?」
この2点については、文献を読んだだけでは合点がいきませんでした。山城盛衰記をまとめたのは今冬でした。「よし!新緑の季節になったら現地調査開始だ!」その時、決意したのです。
羽衣石城は梨楽庵のある湯梨浜町内にあります。有難いことに、マイカーで登山道入口のある駐車場広場までおよそ25分で到着することができました。登山口の階段を上ると、巨木の杉やヒノキの林間を登って行きました。

駐車場のすぐ横の登山道入口

緩やかな坂道が続きます

天然の塁壁の説明版

巨岩が城の石垣の役目を果たしていました
登山道は自然石が敷き詰められていたので、おそらくは戦国期に造られたにちがいありません。途中に、“天然の塁壁”の説明版がありました。自然石を石垣に見立てた砦であり、敵の進入を防ぐ検問所の役目を担っていた場所でした。山頂が近づくにつれて急坂となりますが、わずか25分ほどで山頂に到着しました。

本丸跡の前方に見えるのが羽衣石城です
山頂の本丸跡はかなり広く感じました。東郷町誌によれば、東西66m、南北20mの広さでした。本丸跡には三層の模擬天守が建てられていました。30数年前に登ったときはもっと簡単な作りだったように記憶しています。調べて見ると、昭和6年(1931)に南条氏の子孫によって天守風の建築物が建てられ、現在の天守は子孫から旧東郷町が譲り受けたものを、平成2年(1990)に再建したものでした。

模擬天守ですが、見応え十分の天守閣でした
(注1)南条氏の支配期間
一般的には南条氏は「10代250年間にわたって東伯耆3郡を支配しました」と言われていますが、初代貞宗が羽衣石城を築城した1366年を起点とし、10代元忠が慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで西軍に味方したため、戦後、羽衣石城が廃城となった年を終点とみると、234年間の支配期間となります。
関ヶ原の戦い以降、西軍の石田三成に味方した南条氏は所領を没収され、羽衣石城も南条氏ゆかりの神社・仏閣は全て徳川方によって焼き払われたと言われています。その後、南条氏一族は他国へ逃れ没落していきました。
慶長19年(1614)、大坂冬の陣の時、南条元忠は多くの一族、旧臣と共に大坂城へ入城し戦いました。しかし、元忠は徳川方の重臣、藤堂高虎と内通していることが発覚し、家臣とともに大坂城内にて自刃しています。この時点を終点とみなすと、支配期間は248年間となります。
( 次号へ続きます )
〈 追記 〉
参考文献…『東郷町誌』(昭和60年発行)『伯耆国羽衣天女伝説』(著者 野津龍 平成27年発行)『鳥取県の山』(著者 藤原道弘 2010年発行)
