難攻不落の羽衣石城②
梨楽庵

模擬天守(注1)は間近で見ると堂々とした立派な建物でした。南条氏が城主だった当時、天守はなかったはずなので、あくまでも“模擬”なのですが、最上部の三層の屋根には金の鯱(注2)も取り付けられていて、見応え十分でした。

度肝を抜かれたのは模擬天守の裏側に回った時でした。目の前には圧倒的な絶景が広がっていたのです。正面前方には東郷池や日本海が間近に迫って見えます。左手に目をやると、羽合平野から北条平野が一望できます。そして、伯耆富士「大山」もくっきりと見えるのです。

中央部が東郷池、隠岐島もうっすらと見えました

驚くことに、羽衣石山の山頂からは、鳥取県の西側半分の領域だった伯耆国の東側半分の領域を見渡すことができるのです。当時、伯耆国の東側には河村郡、久米郡、八橋郡の三郡があり、戦国期の南条氏が死守したい領域だったのです。
現代の私たちは、ただ単に「ヤバイ!めっちゃスゲー、この絶景!」と感嘆の声をあげるだけですが、戦国時代の武将がこの場所にやって来たら、誰もが眼下に広がる絶景を、いや領土を奪い取りたいと心に誓ったに違いありません。
登山当日は超快晴でした。大空には真っ青な青色が広がっていました。遠くには島根半島の輪郭も浮かんで見えました。日本海の大海原の向こうには、うっすらと隠岐の島の島影が確認できました。
私見ですが、城跡から眺めた鳥取県の三大絶景は、鳥取市の久松山からの眺め、2022年元旦にNHKで放映された「日本最強の城スペシャル第10弾」で最強の城に選定された米子城からの眺め、そして、ここ羽衣石城からの眺めだと思います。いずれ鳥取城の天守跡も羽衣石城跡も最強の城に選定される日が必ず来ると確信しています。
さて、私の第一の疑問点、「なぜ南条氏は羽衣石山に城を築こうと思ったのか」ですが、回答が浮かんできました。すかさず、「山頂からの絶景に感動したから!でしょう?」との声がどこからか聞こえてきました。そうかもしれませんが、それだけではありません。
織田と毛利の戦いに巻き込まれた9代南条元続は毛利方の家臣、吉川氏と東郷池の周辺で激戦を繰り広げていたのです。戦国武将の立場で山頂から眼下を眺めると、この場所からは吉川軍の動きが手に取るように見えるのです。
吉川元春本隊が伯耆国へ進軍し、南条軍と対峙し着陣した最前線は、当初は北条平野の茶臼山でした。その後、東郷池の対岸の馬野山に陣を構えましたが、羽衣石城から見ると茶臼山も馬野山も肉眼で目視できるのです。

同じように吉川軍からも南条軍が丸見えではないかと思われるかもしれません。確かに羽衣石城の曲輪群も麓から目視することはできたのですが、眼下に見下ろすのと下から見上げるのでは戦略を練るうえで大きな違いが生じたはずです。しかも、羽衣石山の山麓は深い森に囲まれているので全軍の動きを捉えることは困難です。なので、羽衣石山は築城するには最適地だったのです。ガッテン、合点!
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(注1)模擬天守
昭和6年((1931)、但馬国南条氏(南条宗続)の子孫にあたる南条寅之助氏が私財を投じて、鉄筋三層トタン張りの天守閣を完成されました。その後、平成2年(1990)に、模擬天守は旧東郷町に寄贈され、平成4年に現在の本格的な天守に改築されました。
(注2)金の鯱(しゃちほこ)
名古屋城の金の鯱が有名です。しゃちほこは、想像上の生き物です。城の天守閣や櫓などに使われる装飾の一つです。しゃちほこが屋根にのせられるようになった由来は、しゃちに、「火災が起きた時に口から水を出してくれる」という伝説があったからだそうです。建造物が木材だった時代には、鬼瓦とともに守り神となっていたのです。
〈 追記 〉
参考文献…『東郷町誌』(昭和60年発行)『伯耆国羽衣天女伝説』(著者 野津龍 平成27年発行)『鳥取県の山』(著者 藤原道弘 2010年発行)
