小川氏庭園 環翠園①
風景

今から5年前、令和3年11月3日に小川氏庭園「環翠園」が一般公開されました。当時は、ワクチン接種が普及したおかげで、コロナ感染症が収束に向かい始めた時期でした。環翠園については報道機関で度々紹介されるので、機会を見つけて、必ず出かけてみたいと思っていました。
しかし、営業日は金・土・日の3日間のみ、しかも事前予約が必要でした。一般的に公開当初は、予約申し込みが集中します。予約の確保は困難だろうし、予約できたとしても当日の天候が良いとは限りません。週末には地域の共同作業等の行事が組み込まれることも多く、庭園見学は先延ばしになっていました。

「環翠園」は“国登録記念物”であり“鳥取県指定文化財名勝”という高い評価がされています。倉吉市の旧市街地にあり、車では梨楽庵から25分ほどで行くことができるのに、ブログ発信はまだできていませんでした。先延ばししていては、いつまでも心のモヤモヤが晴れません。意を決して、週間天気予報を確認してから電話予約を入れました。嬉しいことに、土曜日でしたが、予約を確保することができました。
梨の大袋かけが終わり、農作業が一段落した令和7年6月7日(土)、開園直後に庭園の管理事務所を訪問しました。環翠園の営業時間は午前9時30分から午後5時までです。庭園鑑賞時間は、1時間30分、1日5回の入替制です。最大定員は1枠10名まででした。
驚いたことに、当日は土曜日だったにも関わらず、9時30分からの予約者は私たち夫婦のみでした。「週末なのに、どうして見学者が少ないのですか?」と案内ガイドのNさんに尋ねると、「今日は鳥取県の中部地区を主会場とする“SUN-IN未来ウォーク”の開催日だからでしょうか」とのお返事でした。

古木の青紅葉が陽光に照らされて輝いていました
入園手続きを済ませると、Nさんから環翠園を造園した小川家の略歴についての説明がありました。小川家は3代目の富三郎(1804~1891)が酒造りと綿の販売で財を成しました。4代目の貞四郎(1845~1915)は銘酒「久米川」を販売し、明治26年(1896年)には小川製糸場を設立しました。製糸場で生産された生糸は高品質だったので、県下有数の生糸生産額を誇りました。
6代目、貞一(1882~1943)は、明治43年(1910年)に小川合名会社を設立しました。大正4年(1915年)には酒銘を“打吹(うつぶき)正宗(まさむね)”に改めました。さらには、倉吉醤油株式会社(後のヒシクラ株式会社)を創業し、県下の金融界、産業界の要職に就き、地方財界の重鎮として活躍されました。
貞一は政治家としても能力を発揮し、県会議員や貴族院議員も務めました。さらには、女子の教育振興にも関心が高く、県立倉吉高等女学校(現倉吉西高等学校)や県女子師範学校(現八頭高等学校)の設立にも尽力されました。
特筆すべきは、昭和5年(1930年)、現在、倉吉市にある県立厚生病院の前身にあたる「有限責任利用組合厚生病院」の設立委員長として、開院に向けて中心的な役割を果たされたことです。何と、産業組合による病院の開院は全国初の偉業でした。
案内ガイドのNさんから小川家の説明を聞きながら、初めて知ることばかり、しかも驚くことの連続でした。最も感心したことは、環翠園を造営した6代目貞一さんが小川家の築いた財力を社会貢献のために活用してきたことでした。入園前に小川家についての予備知識を学んだことで、庭園鑑賞へのワクワク感がより高まったように感じました。

これだけ見事な石橋は見たことがありません
( 次号へ続きます )
