因幡国と伯耆国①
梨楽庵

気多郡と河村郡が因幡国と伯耆国の境界です
現在の鳥取県の県域は、奈良時代から江戸時代までは「因幡(いなばの)国(くに)」と「伯耆(ほうきの)国(くに)」の2つの国で成り立っていました。江戸時代となり、1617年(元和)に池田光政が因幡国と伯耆国2ヶ国を領有し、現在の鳥取県の県域とほぼ同じ領域の鳥取藩が誕生しました。そして、明治新政府の廃藩置県によって鳥取藩は廃止され、鳥取県が誕生したのです。

1617年(元和3)、32万石の鳥取藩が誕生
因幡国と伯耆国の始まりは、645年(大化元年)に起きた大化の改新以降の政権が中国(唐)の政治制度を手本に国づくりを始めた時まで遡ります。当時は、天皇を中心とした国づくりが進められ、701年(大宝元年)に「大宝律令」が制定され、「律令」という法律に基づいた中央集権国家の国づくりが始まりました。
710年(和銅3)に唐の都、長安を手本として、現在の奈良市に平城京が造営されると、律令に基づいた中央集権国家の国づくりが本格的に始まりました。中央集権国家とは政治権力が天皇の住む平城京の中央政府に集中し、中央政府の政治のやり方を全国一律に行う国づくりのことです。このような政治のやり方は、奈良時代から平安時代まで続きました。

「新編 新しい社会 歴史」(2006年 東京書籍発行)
平城京や平安京には二官八省(にかんはっしょう)の国の役所が設けられました。二官とは神祇官(じんぎかん)と太政官(だいじょうかん)です。八省とは、中務(なかつかさ)省、式部(しきぶ)省、治部(じぶ)省、民部(みんぶ)省、兵部(ひょうぶ)省、刑部(ぎょうぶ)省、大蔵(おおくら)省、宮内(くない)省の8つの役所のことです。これらの役所には皇族や貴族が役人として勤務していました。
唐を手本とした新たな国づくりを地方へ行きわたらせるために、現在の都道府県の区分と似た行政区画を「国」と呼び、平安時代には全国に68カ国ありました。そして、現在の鳥取県は、東部は「因幡国」、中部と西部は「伯耆国」に区分されました。(注1)
「国」はそれぞれいくつかの「郡」に分けられ、有力な地方豪族が「郡司(ぐんじ)」に任命され、郡の政治を担当しました。「郡」はいくつかの「里(り)」から成り立っていました。「里」は50戸からなり、「里(さと)長(おさ)」が置かれていました。
「里」は後に「郷(ごう)」に改名され、一時期は郷の下に里が設けられましたが、740年(天平12)以降は、正式に「郷」で統一されました。このことによって、地方の行政区画は、「国」―「郡」―「郷」で区分されることになりました。
因幡国は、邑(おう)美(み)郡・法(ほう)美(み)郡・巨濃(この)郡・高草(たかくさ)郡・気(け)多(た)郡・八(や)上(かみ)郡・智頭(ちず)郡の7郡に分けられました。なお、平安時代末期に八上郡より分離して八東(はっとう)郡が設けられ8郡となりました。

伯耆国は、河村(かわむら)郡・久米(くめ)郡・八橋(やばせ)郡・汗入(あせり)郡・会見(あいみ)郡・日野(ひの)郡の6郡に分けられました。

現在の湯梨浜町は律令制度では、河村郡に属しました。河村郡には、笏賀(くつか)郷・舎人(とねり)郷・多駄(ただ)郷・埴(はな)見(み)郷・日下部(くさかべ)郷・河村(かわむら)郷・竹(たけ)田(だ)郷・三朝(みささ)郷の8郷がありました。

(注1)律令制で定められた古代の地方行政区分は「五畿七道(ごきしちどう)」と呼ばれました。五畿とは、大和・山城・河内・摂津・和泉の5ケ国で、七道とは、東山道・東海道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の7道のことです。以下に、7道に含まれる国を列挙します。
東山道…近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・武蔵
出羽・陸奥
東海道…伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河
甲斐・相模・伊豆・安房・上総・下総・常陸
北陸道…若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡
山陰道…石見・出雲・伯耆・因幡・隠岐
但馬・丹後・丹波
南海道…伊予・土佐・讃岐・阿波・淡路・紀伊
西海道…肥前・肥後・筑前・筑後・豊前・豊後
日向・薩摩・大隅・対馬・壱岐

古代の行政区画(因幡万葉歴史館所蔵パネルより)
〈 追記 〉
参考文献…『新修鳥取市史第1巻』(昭和58年発行 鳥取市)『よみがえる因幡国府』(著者 高見茂 平成6年発行 富士書店)『新編 倉吉市史第1巻』(平成8年発行 倉吉市)
( 次号へ続きます )
