農家民宿 梨楽庵ブログ

因幡国と伯耆国②

梨楽庵

 

     因幡国庁跡(鳥取市国府町)

 710年(和銅3)に唐の都、長安を手本として、奈良市に平城京が造営されると、701年(大宝元年)に制定された大宝律令に基づき、天皇を中心とした中央集権国家の国づくりが本格的に始まりました。

 平城京や平安京(京都市)の中央政府の政治のやり方を全国一律に行うためには、全国に66カ国あった諸国に、「国司」を派遣し、地方の政治を担当させました。「国司」には皇族や都の貴族が任命されました。

 都から派遣された「国司」が勤務した場所を国庁(こくちょう)または国衙(こくが)と呼びました。現在の「都道府県庁」に相当します。そして、国庁の周辺区域を「国府(こくふ)」と呼びました。なお、国庁の「庁」も国衙の「衙」も役所という意味です。そして、現在の鳥取県は、東部は「因幡国」、中部と西部は「伯耆国」に区分されました。

 現在、鳥取県の県庁所在地は鳥取市ですが、因幡国の国庁は鳥取市国府町にありました。2004年(平成16)11月に平成の大合併で単独の自治体だった「国府町」は鳥取市と合併しました。現時点で考えると、県庁所在地の鳥取市ではなく、合併前の「岩美郡国府町」に国庁が置かれたのは不思議に思われるかもしれません。

 実は、現在の鳥取市は江戸時代に鳥取藩の城下町として整備され発展しましたが、古代においては、千代川(せんだいがわ)の下流域は低湿地で水害が発生しやすい地形だったので国庁を置くには適さない場所でした。千代川には支流の袋川が合流していますが、この袋川をさかのぼると豊かな水田地帯が広がっています。この場所に国庁が置かれました。

   国府平野の中央部に国庁が置かれました

面影山(左)と天神山(右)の間の平坦な部分が鳥取市街地方面です

 因幡国庁の推定模型(150m~200m四方と推定)因幡万葉歴史館所蔵

 因幡国庁跡の発見のきっかけは、合併前の岩美郡国府町で農業構造改善事業による圃場整備事業が計画されたからでした。1972年(昭和47)から県教育委員会によって国庁跡・国分寺跡・国分尼寺跡の発掘調査が実施されました。調査の結果、国庁跡と推定され、1978年(昭和53)8月に、「因幡国庁跡」として国の史跡に指定されました。

 国庁が置かれた国府平野は周囲を小高い山々に囲まれています。その中の「面影山(おもかげやま)100m」「甑山(こしきやま)110m」「今木山(いまきやま)89m」は「因幡三山(いなばさんざん)」と呼ばれています。都が奈良の平城京に移る以前、わが国最初の本格的な都は奈良盆地の南部に置かれた藤原京(694年~710年)でした。

 藤原京は「耳成山(みみなしやま)139m」「畝傍山(うなびやま)199m」「天香具山(あめのかぐやま)152m」に囲まれた中央部に築かれました。3つの山は、「大和三山(やまとさんざん)」と呼ばれ、飛鳥の都人に崇められ、多くの和歌に詠まれました。この大和三山になぞらえて、「因幡三山」と名付けられました。 

国庁跡から見ると西に位置する「面影山(おもかげやま)」

国庁跡から見ると東に位置する「甑山(こしきやま)」

   袋川付近で撮影した「甑山(こしきやま)」

国庁跡から見ると南に位置する「今木山(いまきやま)」

  因幡万葉歴史館駐車場付近から撮影した「今木山」

 国庁跡の調査とともに国分寺と国分尼寺の調査も行われました。国分寺跡については、国分寺のものと思われる8個の礎石が国庁跡の近くの「国分寺」という集落内の寺に残されていることが確認されました。また、塔と南門の跡も確認されています。国分尼寺については、国分尼寺のものと推定される礎石が1個確認されています。

 一方、伯耆国の国庁は、倉吉市の西側を流れる国府(こう)川沿いの丘陵地に置かれました。この場所の地名は「国府(こう)」と呼ばれ、国庁があったことが推定されます。伯耆国庁跡が発見されたのは、今から57年前の1969年(昭和44)でした。これまでの発掘調査によって、国庁は四方を幅2m、深さ1mほどの溝で囲まれ、東西273m、南北227mの長方形に区画され、東側には東西51m、南北245mの張り出し部分があったことが確認されています。

  倉吉市の西方の丘陵地に伯耆国庁跡はあります

     伯耆国庁跡の周辺は広大な丘陵地です

  伯耆富士「大山」を望む場所に国庁は置かれました

 伯耆国庁は、出土遺物や遺構の重なり合いなどから、8世紀後半から10世紀にかけて、大きく4回の建て替えが確認されています。第1期は8世紀中頃から後半頃で、建物は全て掘立て柱で作られていました。

 第3期の9世紀中頃が最も整備された時期で、南門以外の建物は、礎石の上に建物が建てられる構造になっていました。また、国庁の東側には、「伯耆国分寺跡」と「伯耆国分(こくぶん)尼(に)寺跡は(法華寺畑遺跡)」が発掘調査されています。

     伯耆国分寺跡の説明版

  芝生が植えられて管理が行き届いていました

    伯耆国分寺にあった塔跡の礎石

 写真の「法華寺畑遺跡」は、当初は軍事・警察的な権限をもった鎮撫使(ちんぶし)が駐屯した施設だと推定されています。そして、後に国分尼寺に転用されたと言われています。「不入岡遺跡」からは国庁関連の巨大な倉庫群が発掘されています。さらには、8世紀前半の国庁に相当する建物跡が確認されていることから、万葉歌人の山上憶良が国司として赴任した最初の国庁だと推定されています。