農家民宿 梨楽庵ブログ

日本一だった倉吉の千歯扱き①

梨楽庵

打吹山の麓にある「倉吉博物館」です。すぐ隣には「倉吉歴史民俗資料館」があります

 ずーと前から見たり聞いたりして知っていて、気になっていながら、多忙を言い訳にして深掘りしようとしないことってありませんか?私にとっては、それが倉吉市の千歯扱(こ)きでした。

 長らく中学校で社会科を担当していた時期がありました。中学校の社会科の歴史では古代から現代までの政治、経済、文化について大まかな通史を教えるのが一般的です。どうしても教師も生徒も受験を意識せざるを得ませんから、入試の出題傾向を考慮しながら、限られた授業時間の中では、重点の置き方を工夫しなければなりません。

 そうなると、教科書に掲載されていながらも、簡単に触れる程度でサッと済ませてしまう内容もでてきます。それが、「千歯扱き」でした。手元にある20年前の歴史の教科書を開いて見ますと、千歯扱きは、江戸時代の農業の進歩のところで取り扱われています。

 しかし、記述内容はほんのわずかです。「農具が改良され、農業の技術書もつくられ、進んだ地域の農業技術が各地に伝えられました。」教科書の本文中の1行半ほどなのです。農具についても挿絵が載せてあるだけです。「農具って、どんな農具なの?」「農業の技術書ってどんな本?」「進んだ地域ってどこのこと?農業技術って、どんな新しい技術なの?」

 たとえ生徒がそんな疑問を持ったとしても、その問いに十分な時間をかけて説明する教師はおそらくいないのではないでしょうか。恥ずかしながら、私も江戸時代の農業の進歩については簡単に説明するだけでした。言い訳になりますが、農業の進歩について説明を求めた生徒は誰一人いませんでした。

 でも、私は気になっていたのです。挿絵に千歯扱きが描かれていて、江戸時代後期から明治時代にかけて、倉吉市が一大生産地だったことを知っていながら、千歯扱きの使用方法や千歯こきが農作業の効率を高めたことにふれる程度でいいのか、と。

  「教科書には千歯扱きとしか書かれていないけど、日本一の産地が倉吉だったんだよ。入試にはほとんど関係がないけど、じっくりと教えたいなあ」と。じっくりと教えるには、自分自身の学びが必要です。しかし、日々の様々な業務に追われていては、千歯扱きと向き合う時間は全くありませんでした。

 一昨年にホームページを立ち上げ、ブログを書き始めた時、頭をよぎった題材の一つが「千歯扱き」だったのです。「よーし、いつか千歯扱きについて学習し、学びの報告をブログで届けたいな。それが鳥取県を知っていただくきっかけになってもらえるかもしれないな」私が千歯扱きに向き合ったきっかけは、長年の宿題を解決するためだったのです。

   資料館のお宝の一つが「千歯扱き」です

 前置きが長くなりましたので、本題に入ります。千歯扱きは、櫛状に並んだ鉄製の歯(刃)の上に稲穂をのせて、手前に引いて稲穂から籾(もみ)をむしり取る道具のことです。効率が良く、一度にたくさんの稲を扱(こ)くことができるので、そう呼ばれたようです。百とか千は数が多いことを意味する言葉なので、歯(刃)がたくさんついているので千歯という漢字が使われたようです。

 千歯扱きは、台木(だいぎ)と呼ばれた角材に鉄製の歯を櫛状に横に並べたものです。鉄製の歯は穂と呼ばれました。穂は、小さな釘(くぎ)を使って台木に取り付けられています。穂の形状や本数は一律ではなく、生産地や製造者によって違いがありました。

 千歯扱きが登場するまでは、稲穂を扱くには「扱管(こきくだ)」が使われていました。扱管とは、2本の竹製の管を麻縄などの紐でつないだ道具です。使い方は、竹管の間に稲穂をはさみ、稲束を手前に引いて籾(もみ)をむしり取ります。江戸時代の半ばごろまでは、扱管が広く使われていたようです。

 扱管と比べた場合の千歯扱きの実際の効率は2倍から3倍程度だったようです。しかし、2,3日かかった仕事を1日で終えることができるとすると、千歯扱きの効率はたいへん良く、農民たちの農作業の負担が軽減されたことは間違いありません。

画像①扱管(「米こぎくだ」)農林水産技術会議事務局筑波事務所所蔵

画像②扱管を使う(『民家検労図』より)

画像③扱箸を使う(『農業全書』より)少し長い竹を使用したものは「扱箸(こきばし)」と呼ばれました

 千歯扱きがいつ誕生したかは明確ではないようですが、江戸時代の18世紀の初めごろに、竹製の歯を使った千歯扱きが使われ、その後、鉄製の歯を使った千歯扱きが使われるようになったようです。

    東海地方や関東地方では麦の栽培がさかんだったので、竹や木で作られた穂(刃)を使った千歯扱きが使われていたようです。竹製や木製の千歯扱きは、稲を扱くには穂先が弱く不十分でしたが、麦を扱くには適しており、鉄よりも安価だったので広く普及したようです。

 次に、千歯扱きの使い方について説明します。千歯扱きは、台木と穂(刃)が取り付けられた本体だけでは使用できません。実際には、脚を取り付け、踏み板をおき、扱(こ)いた籾(もみ)が飛び散らないように、筵(むしろ)や竹製の箕(み)を取り付けて受け止めるようにしました。

日本一の生産量を誇った倉吉の千歯扱き(倉吉博物館所蔵)

踏み板を取り付け、足で踏んで動かないようにします(倉吉博物館所蔵)

画像④農業づくし(部分)作者は歌川広重です。千歯扱きの作業の様子が描かれています

籾(もみ)は筵(むしろ)や箕(み)で受け止めます。この箕は我が家にありました

 それでは、明治から大正時代にかけて倉吉市の代表的な産業だった千歯扱きについて説明します。倉吉では千歯扱きを「千刃」と表記したそうです。倉吉においては、千歯扱きの製造は江戸時代の19世紀前半にはすでにさかんだったようです。しかし、いつ頃始まったのかは明確ではないようです。

 倉吉における千刃製造の起源については、『技術史話雑稿』(昭和18年刊)の中で、多賀義憲氏が古老の話を紹介しています。

 「倉吉稲扱きの起源は元禄の初に倉吉町に佐平なる人があり、鉄砲鍛冶たるべく志して、泉州堺に赴き其の技術を修得せんとしたが、つらつら倉吉地方と農村との関係を考慮して鉄砲製造よりも稲扱製造の有利なることに想い到って、ここに初志を翻し、稲扱の製法を修してかえり、倉吉鍛冶町で始めて、稲扱きの製作を開始したもので、それが元禄6年(1693年)のことであったそうな」と書き残しています。この古老の言い伝えをもとに、17世紀後半の元禄年間が創業時ではないかとされていました。

 これに対して、横浜市歴史博物館で2013年に開催された展覧会「千歯扱き 倉吉・若狭・横浜 」において、明治22年(1889年)2月4日の『官報』に掲載された「倉吉稲扱製造景況」の記事を紹介し、安永年間(1772年~1780年)に倉吉鍛冶町の金具屋光右衛門が泉州堺の稲扱をまねて2,3の鍛冶屋と稲扱製造を始めたことが始まりではないかと推定されています。

 さらに調べていると、朝岡康二氏が『西日本の千刃扱きーその発生と展開―』(1981年)の中で、大阪の近郊にあって鍛冶製品の生産地として名をはせた三木町(現在の兵庫県三木市…「金物の町」と呼ばれています)の鍛冶業の発展の様子を紹介し、倉吉の千刃扱きの発展の経過について次のように推論されています。

 「倉吉の千刃扱きも又大阪を中心とした問屋流通に組み込まれていた。おそらく倉吉で最初に作られたのは穂先の鉄の部分のみであって、(中略)これらの鉄穂は大阪あるいは堺あたりに荷出しされて、そこで台木に組み付けられて千刃扱きとなって売りに出される。(中略)その後に組立ても段々と倉吉でおこなうようになって倉吉鍛冶町は釘(くぎ)鍛冶の町から千刃鍛冶の町へと発展」していき、三木町を含む播州鍛冶が急速に発展した18世紀後半から19世紀前半に、倉吉も有力な産地となったのではないかと説明しています。

 倉吉市は江戸時代から明治にかけて洪水や大火に見舞われたことが多く、千歯扱きに関する古い時代の資料は少ないようです。しかし、伝承や先人の貴重な文献等で千歯扱きのしくみと誕生の歴史を知ることができて、私は十分に満足しています。

 今回のブログでは、千歯扱きのしくみと誕生の歴史を中心にお伝えしました。なお、ブログの作成にあたっては、『千歯扱き 倉吉・若狭・横浜 』(横浜市歴史博物館発行)に収録されている倉吉博物館主任学芸員の関本明子さんの論文から多くのことを学ばせていただきました。ありがとうございます。

*参考文献等…『新編倉吉市史第2巻』(倉吉市1995年)『新編倉吉市史第3巻』(倉吉市1993年)『倉吉市史』(倉吉市1973年)『倉吉市誌』(倉吉市1956年)『倉吉町誌』(倉吉町1941年)『日本常民文化研究所調査報告第6集』『日本常民文化研究所調査報告第8集』(1981年)

*画像①~④は『千歯扱き 倉吉・若狭・横浜』(横浜市歴史博物館発行)から転載しています。