鳥取藩池田家は32万石の大大名
梨楽庵

延宝8年(1680)鳥取城修覆願図(鳥取県立博物館所蔵)
「日本百名城 鳥取城跡①②」では、鳥取城を巡る戦国時代から江戸時代初期までの略歴について紹介しました。しかし、江戸時代に32万石もの大大名だった池田氏は外様大名(とざまだいみょう)だったにも関わらず、どうして幕府から石高の高い領地を与えられたのでしょうか。疑問に思われる方も多いと思います。
前回のブログに「池田家略系図」を載せていましたが、重要な部分を意図的に省略していました。今回は載せていますので、以下の系図をご欄下さい。実は、池田家と徳川家は姻戚関係にあったのです。

1582年(天正10年)、本能寺の変で織田信長が亡くなると、秀吉と家康の対立が深まり、1584年(天正12年)には、小牧・長久手の戦いが起こり、羽柴秀吉軍と織田信雄(のぶかつ)・徳川家康連合軍が激戦を繰り返しました。
信長の家臣だった池田恒興(つねおき)は(注1)、秀吉側に味方して参戦しましたが、恒興(つねおき)も長男元助(もとすけ)も共に討ち死にしました。家督を継いだのは、次男の輝政(てるまさ)でした。
1594年(文禄3年)、池田家に大きな転機が訪れました。池田家と徳川家との和解をねらった秀吉は、輝政にとっては父と兄が討ち死にした仇敵、つまり“かたき”と言える家康の娘、督姫(とくひめ)を妻にすることを輝政に命じたのです。
その後の歴史をみると、輝政と督姫との政略結婚が江戸幕府における池田家の発展を決定づけることになったのです。豊臣家の重臣の扱いを受けていた輝政は、秀吉が亡くなってからは家康との関係を深めていきました。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いでは、輝政は家康に味方し、戦後は、功績が認められ、播磨国(はりまのくに)52万石が与えられ、姫路城主となったのです。輝政は姫路城の大規模改修に取り組むと共に、藩内の河川の整備や都市開発、さらには、幕府から命じられた城の普請(工事のこと)も度々請け負いました。

輝政の活躍で、幕府から一目置かれた池田家は、輝政の子孫たちにも強い影響を及ぼしました。初代鳥取藩主池田光仲の曾祖父は、徳川家康です。そのため、鳥取藩池田家は特に幕府から徳川家一門に準じて厚遇され、池田家は外様大名だったにも関わらず、鳥取城の建物に、“葵紋”(徳川家の家紋)の瓦を葺(ふ)くことを許されたのです。

寛永9年(1632)光仲は岡山城から鳥取城へ国替えとなり、初代鳥取藩主となります。

ブログに徳川家康と池田光仲の肖像画を掲載しています。どうですか。よく似ていると思われませんか。光仲には明確に家康の血が流れているのです。

「石高から見た鳥取藩の位置」の表をご覧下さい。江戸時代の藩の数は時期により増減がありますが、おおむね260藩~280藩あり、鳥取藩の石高は、上位から12番目でした。現在の鳥取県の人口は約52万人です。47都道府県で最も人口の少ない県ですが、江戸時代には雄藩の一つとして、一目置かれていたのです。
激動の戦国時代に織田信長の家臣として仕え、本能寺の変で信長亡き後は秀吉の家臣として仕え、朝鮮出兵の最中に秀吉が亡くなってからは、父と兄の“かたき”だった家康に仕え、江戸時代を生き抜いた池田家って、“すごくないですか!?”
(注1)池田恒興と織田信長の関係…恒興より2歳年上の信長の乳母は、恒興の実母であり、恒興と信長は同じ女性の乳を飲んで育った“乳兄弟(ちきょうだい)”だったのです。恒興は幼少期、信長の遊び相手であり、成長してからは、信長の家臣として頭角を現すようになったのです。
〈 追記 〉
*32万石とは…“石(こく)”とは、米の容積の単位です。32万石とは、鳥取藩の領地の中で、計算すると32万石の米がとれることを意味しています。
*米の単位…1石=10斗(と) 1斗=10升(しょう) 1升=10合(ごう) つまり、
1石は1合(180cc)の1000倍(180ℓ)
*32万石を米俵にすると…米俵1俵は、鳥取藩で は4斗(0.4石)入りなので、
32万÷0.4=80万俵になります。
*鳥取藩主池田家墓所は、国の史跡に指定されています。初代から11代までの藩主の墓を中心として、大小78基の墓と多数の石灯籠を見ることができます。是非、一度訪れてみてください。
*参考資料…『特別展 鳥取藩32万石』(鳥取県立博物館)『県史31 鳥取県の歴史』(山川出版社)『国指定史跡 日本百名城 鳥取城跡』(鳥取市教育委員会事務局文化財課)『鳥取県謎解き散歩』(新人物文庫)『鳥取城のあゆみ』(鳥取市歴史博物館)『鳥取のお殿さまー天下人と歩んだ池田家―』(鳥取市歴史博物館)
