農家民宿 梨楽庵ブログ

橋津藩倉って何ですか?②

梨楽庵

 東郷池は橋津川を通じて日本海とつながっています

 橋津に藩倉が置かれたのは、古来より海上交通の便の良さがあったからです。天神川及びその流域の河川と東郷池、そして橋津川を舟便で利用すれば効率的に年貢米を海岸部へ輸送することができたからです。

 橋津藩倉には、旧河村郡(現在の湯梨浜町と三朝町)の79カ村と旧久米郡(現在の倉吉市)の31カ村の年貢米が運ばれていました。年によって増減はあるものの、毎年42,500俵、石高にすると17,000石の米が藩倉に収納されていました。多い時には約50,000俵、20,000石の米が収納されたと言われています。

 画像は鳥取藩が作成した正保の国絵図(部分拡大)

 さらには、倉吉の藩倉の収納米のうち、藩士へ支給された俸禄米が残った場合には、その残米も橋津藩倉へ収納されていました。

 橋津藩倉が創設されたのは、正保2年(1645年)と言われています。藩倉の規模は、『橋津港御蔵之絵図』(鳥取県立博物館所蔵)によると、長大な御蔵が15棟と、年貢米を検査する建物の「計屋(はかりや)」があったことが確認されています。総建坪は603坪ありました。(注2)

『橋津港藩御蔵之絵図』(通称:谷田絵図 鳥取県立博物館所蔵)

 鳥取藩の財政面で重要な役割を果たしていた橋津藩倉の警備は、日頃から厳重でした。御蔵に仕える人夫は37人~38人、各村からの人夫300人ほどが交替で責任分担し警備を行っていました。火消し用具も完備されていました。

  御蔵に常備されていた消火用具(湯梨浜町指定文化財)

 天神川流域の村々から出される年貢米は、川舟によって運ばれました。この年貢米運送の役目は、橋津の住民の特権的な家業でした。橋津の開村の祖である天野屋(あまのや)は、江戸中期の頃(享保年間1716年~1736年)より河村郡の大庄屋を度々務めていました。

 天野屋には川舟による運送業を取り仕切る権限が与えられ、天野屋が発行する「役目札」(鑑札)を持つものが専業として“川舟稼業”に従事しました。元禄9年(1696年)には143軒に役目札が出されました。その後、戸数の増加がありましたが、役目札は143枚のままでした。役目札は一種の財産であり、賃貸借や抵当として高価な取引がされました。

 川舟稼業の仕事は主にふた通りのルートがありました。一つは、川舟を使用して年貢米を東郷池から橋津川を通って藩倉へ運搬するルートです。もう一つは、天神川の沿岸各地から天神川を下り、“御蔵船川”を通って藩倉へ運搬するルートです。(注3)川舟には15俵程度を積み込めました。

  川船は橋津藩倉に展示されています

 藩倉から沖合で待つ本船への搬送作業は「津出し」と呼ばれました。地形上、藩倉近くへ大船を接岸することができなかったので、年貢米を御蔵から「道船(みちぶね)」と呼ばれた運搬船に積み込み、沖合で待機している本船へと運ばれました。道船は二十隻余りありました。

(注2)…嘉永年間(1848年~1854年)に1棟建造されています。

( 次号へ続きます )